アルフレッド・シスレー 【略歴と作品一覧】

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アルフレッド・シスレー(Alfred Sisley, 1839年10月30日 – 1899年1月29日)は、フランス生まれのイギリス人の画家。シスレーの900点近い油彩作品のうち大部分は、パリ周辺の風景を題材にした穏やかな風景画で、人物、室内画、静物といった他のジャンルは全て合わせてもおそらく20点に満たない。他の印象派の画家の多くが、後に印象派の技法を離れたなかで、シスレーは終始一貫、印象派画法を保ち続け、もっとも典型的な印象派の画家といえる。


【略歴】

  • 誕生~(1839-1859)

シスレーは、1839年10月30日に裕福なイギリス人の両親のもとパリに生まれた。父親ウィリアム・シスレーは絹を扱う貿易商でロンドンのセント・ポール大聖堂の裏手にあるワトリング通りで基礎を築いたが、生涯の大半をパリで過ごした。母親のフェリシア・セルは、ケント州リド出身の馬具製造人の娘であった。

シスレーの画家としてのルーツは風景画に見れる田舎の暮らしではなく、むしろ都会的なブルジョワジー文化にある。その他に、シスレーには兄と二人の姉がいたこと以外に幼少期の生活を伝える資料は残っていない。

18歳の頃には3~4年間商業の勉強の為にロンドンに移っている。しかし、シスレーは勉学そっちのけで展覧会などに訪れ、特にカンスタブルとターナーに熱中していた。また、同時期にコローやバルビゾン派の画家たちの展覧会がロンドンで開かれていたので、シスレーも訪れていたと考えられる。

  • 画家に転身~パリ郊外での制作活動(1860-1865)

シスレーは、1860年の秋に、商業の道を捨て絵画の勉強をさせて欲しいと両親に申し出たとされている。この時に、シャルル・グレールの画塾に入り本格的な絵画の道を歩み始めた。師のシャルル・グレールは、ドイツ訛りのあるスイス人で、他の教師と同じようにアトリエを開いて画を教えていた。とはいえ、グレールはアトリエでの授業料などは取らず30~40名の貧しい若者画家を教えるなど人格者としても知られていた。

このアトリエは、ジョージ・デュ・モーリエの小説『トリブリー』にも登場し、その個性的な生徒たちが描写されている。このアトリエには、1962年までに4人のずば抜けた生徒が通っている。一人はシスレーであるが、他にピエール=オーギュスト、クロード・モネ、フレデリック・バジールの後に絵画史に残る巨匠達がいた。このような恵まれた師と仲間たちの元で絵画の基礎を築いたシスレーであったが、アトリエでの作品は1点も残っていない。1860年代のシスレーの成長は僅か数点の作品で推測しなければいけないのが現状であるが、コローとクールベの影響を受けているのは確かである。

シスレーの画塾での勉強は、1864年のアトリエ閉鎖によって終わり、この時期からしばしばパリを離れてマルロットやシャイイで制作している。若き画家シスレーの制作活動は順調であったのには、彼がルノワールやモネと違って経済的に安定していたからであった。この時期のシスレーは、仕事が繁盛していた父親から多額の仕送りを貰っていたのである。

  • サロン入選~印象派展への参加(1866-1879)

1866年にシスレーは2点の絵がパリのサロンに入選している。2点ともフォンテーヌブローの風景である。しかし、その翌年にはルノワール、ピサロ、セザンヌ、バジール等と共に落選している。これに不満を持った画家たちは、美術界を騒がせたマネの「落選展」に倣って落選界を行い怒りをぶつけようとしたが実現しなかった。この後、画家たちはサロンの審査員シャルル・ドービニーを味方につけ無事入選を果たした。

また1866年には花屋のマリー・ルイーズ・アデライード・ウジェニー・レクーゼクと出会い、翌年、息子ピエールが生まれ、2年後には娘ジャンヌが生まれた。しかし、この二人の関係を父親のウィリアムは認めず、シスレーへの仕送りをストップしてしまう。その後、1870年に普仏戦争によって全ての財産を失ってしまったシスレーは頼る者もおらず困窮生活が始まるのであった。

1870年に入るとシスレーは画家として全盛期を迎える。シスレーの画家としての進歩は目ざましいもので、数か月で前印象主義的な表現に到達した。彼の作風は同時代の仲間たちと競い合い、同調した末に獲得したものであるが、その仲間たちの制作が一つの形になったのが「印象派展」である。印象派展は、1873年の後半に、モネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、セザンヌ、ベルト・モリゾ、 エドガー・ドガなどが「画家・彫刻家・版画家の共同出資会社(Société Anonyme Coopérative des Artistes Peintres, Sculpteurs, Graveurs) 」を組織し、自分たちの作品の独自の展覧会を企画し、1874年4月に写真家ナダールのスタジオで開かれた。

シスレーは、8回の印象派展のうち4回参加している。この印象派展は新聞などでは嘲笑の的であり、モネやルノワールは批判を浴びていたがシスレーにはほとんどなかった。これは、受け入れられていたのではなく、一方的に批判され賛否の余地すらなかったのである。この事にシスレーはいつも落胆していたが彼の情熱を止めるまでには至らなかった。

  • 晩年~死去(1880-1899)

印象派として美術界に大きな話題を提供し、自身の表現も磨かれていった1870年代を過ぎ、1880年代にはパリ南東のロワン川沿いに制作の拠点を移した。元々、大人しい性格であったシスレーにとって印象派の運動は仲間たちと過ごす貴重な時間だったが、郊外での静かな制作活動に回帰したのである。

郊外に拠点を移したのは経済面での理由もあったかもしれない。晩年になってもシスレーの経済的な苦しさは解消されることはなかった。印象派のグループの画家達は同じように貧困の時期を経験しているが、時間と共に経済面は安定し、生活に困ることはなかった。しかし、唯一、シスレーは死ぬまで金銭面で苦しんだ画家であった。

1889年にはモレ=シュル=ロワンに移住し、ノートルダム教会で連作に挑むなど制作意欲は衰えていなかった。彼の作品は晩年にあっても更に進化を求め、より気象状況の変化による光の表現などを研究している。

しかし、シスレーの引っ込み思案な性格は更に酷くなり、感情が読み取れない人物として見られるようになった。また体力も衰え、パリでの画家たちの活動には参加することはなかった。1889年11月には住みやすさを考えてか、街中のモンマルトン通りの小さな家に移り住み、終の住処とした。シスレーの最後の旅行は、1897年の南ウェールズ訪問である。この時、長く生活を共にしたウジェニーと婚姻届を提出している。

1897年10月にパリに戻ったシスレーは、翌年98年に喉頭癌を患っていることが分かった。また妻ウジェニーが舌癌で没し、精神的な支柱も失ってしまう。この時期からシスレーの身体は急速に衰えていき、更に翌年の1899年1月29日、モレ=シュル=ロワンにて喉頭癌で死去した。59歳であった。


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『小さな町近くの小道』 1864-65年頃作

 

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『マルロットの村道』 1866年作

 

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『アオサギのいる静物』 1867年作 油彩・カンヴァス 81cm×100cm ファーブル美術館

 

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『シテ・デ・フルールからのモンマルトルの眺め』 1869年作 油彩・カンヴァス 70cm×117cm グルノーブル美術館

 

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『サン・マルタン運河の眺め』 1870年作

 

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『ルヴシエンヌの初雪』 1871-72年作

 

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『アルジャントゥイユの広場』 1872年作 油彩・カンヴァス 46.5cm×66cm オルセー美術館

 

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『エロイーズ大通り,アルジャントゥイユ』 1872年作 油彩・カンヴァス 39cm×61cm ナショナル・ギャラリー

 

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『アルジャントゥイユの歩道橋』 1872年作

 

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『ヴィルヌーヴ=ラ=ガレンヌの橋』 1872年作

 

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『セーヌ川岸にある村()ヴィルヌーヴ=ラ=ガレンヌ』 1872年作 油彩・カンヴァス 60cm×81cm エルミタージュ美術館

 

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『アルジャントゥイユの大通り』 1872年頃作 油彩・カンヴァス 65.4cm×46.2cm ノーフォーク州ノリッジ・キャッスル美術館

 

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『ラ・ミ=コトの小道,ルヴシエンヌ』 1873年作 油彩・カンヴァス 38cm×46.5cm オルセー美術館

 

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『ルヴシエンヌのプランセス通り』 1873年作

 

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『ルヴシエンヌの道の雪(マシン通り)』 1873年作 油彩・カンヴァス 54.5cm×75cm オルセー美術館

 

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『ルヴシエンヌの庭の小道(エターシュの小道)』 1873年作 油彩・カンヴァス 64cm×46cm 個人蔵

 

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『マルリのマシン』 1873年作 油彩・カンヴァス 45cm×64.5cm ニ・カールスベルク美術館

 

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『ルヴシエンヌの道の雪(マシン通り)』 1874年作 油彩・カンヴァス 38cm×56cm 個人蔵

 

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『露の朝、ヴォワザ』 1874年作

 

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『ルヴシエンヌの通り(プランセス通り)』 1874年頃作 油彩・カンヴァス 38cm×54cm フィリップ・コレクション

 

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『レッスン』 1874年頃作

 

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『ハンプトン・コートの橋』 1874年作 油彩・カンヴァス 45.7cm×61cm ヴァルラフ=リヒャルツ美術館

 

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『ハンプトン・コートの橋の下』 1874年作

 

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『ハンプトン・コートのレガッタ(競艇)』 1874年作 油彩・カンヴァス 45.5cm×61cm ビューレ・コレクション

 

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『モレジーの堰―朝』 1874年作 油彩・カンヴァス 50cm×75cm スコットランド国立美術館

 

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『マルリの水道橋』 1874年作

 

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『マルリ=ル=ロワの祝祭日』 1875年作

 

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『埠頭岸の砂,ポール=マルリ』 1875年作 油彩・カンヴァス 45cm×65cm 個人蔵

 

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『マルリ=ル=ロワの眺め―陽光』(旧題『サン=クロードの眺め』) 1876年作 油彩・カンヴァス 54.2cm×73.2cm オンタリオ美術館

 

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『ポール=マルリーの洪水』 1876年作

 

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『ポール=マルリの洪水と小舟』 1876年作 油彩・カンヴァス 50.5cm×61cm オルセー美術館

 

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『ポール=マルリの洪水』 1876年作 油彩・カンヴァス 50cm×61cm ティッセン=ボルネミッサ美術館

 

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『ルーヴシエンヌの雪』 1878年作

 

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『セーヴル駅』 1879年頃作 油彩・カンヴァス 15cm×22cm 個人蔵

 

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『ヴヌー=ナドンの雪模様』 1880年頃作 油彩・カンヴァス 55cm×74cm オルセー美術館

 

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『春の果樹園―ビィ』 1881年作

 

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『春の小さな草地―ビィ』 1881年頃作

 

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『マトラの船つき場,モレ=シュル=ロワン』 1883年頃作 油彩・カンヴァス 38cm×55cm オワーズ美術館

 

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『サン=マメスの農家の中庭』 1884年作

 

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『サン=マメスのロワン運河』 1885年作 油彩・カンヴァス 74.9cm×93.3cm フィラデルフィア美術館

 

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『雪の情景,モレの駅』 1888年作 油彩・カンヴァス 18cm×21.5cm スコットランド国立美術館

 

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『モレ=シュル=ロワン』 1891年作

 

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『モレのロワン運河』 1892年作 油彩・カンヴァス 73cm×93cm オルセー美術館

 

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『モレの眺め(フォックス通り)』 1892年作 油彩・カンヴァス 38cm×46cm ウェールズ国立美術館

 

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『朝の日差しを浴びるモレの教会』 1893年作 油彩・カンヴァス 80cm×65cm ヴィンタートゥール美術館

 

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『モレの教会―凍てつく天候』 1893年作 油彩・カンヴァス 65cm×81cm 個人蔵

 

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『モレの教会』 1894年作

 

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『ラングランド湾,ストールの岩―朝』 1897年作