パウル・クレー 【略歴と作品一覧】

Klee

パウル・クレー(Paul Klee、1879年12月18日 – 1940年6月29日)は20世紀のスイスの画家、美術理論家。ワシリー・カンディンスキーらとともに青騎士グループを結成し、バウハウスでも教鞭をとった。その作風は表現主義、超現実主義などのいずれにも属さない、独特のものである。

 


【略歴】

  • 誕生~青年時代(1879-1897)

パウル・クレーは、1879年12月18日にスイス中央部にある首都ベルンで生まれた。父は、教員養成学校で音楽教師を務めており、母も楽学校で声楽を学ぶという音楽一家であった。クレーが生まれた翌年には一家でベルン市内に移り住んだ。クレーは、幼少期から家庭で音楽に親しみ、小学校入学と同時にベルンのヴァイオリニストに弟子入りしている。このヴァイオリンの腕前は、ベルン市管弦楽団の非常勤団員となるまで成長している。

画業の方は、幼児期の祖母の手ほどきがあったと伝えられるが、後年への影響は定かではない。確かな資料としては、1892年から98年までに9冊のスケッチブックを残しており、この時期から絵画への関心があったことが分かる。特に、高校時代に国語教師を揶揄したことで停学処分を受けた折には、初めてのスケッチ旅行としてフランス国境に近い湖に出かけている。

 

  • 修業時代~(1898-1910)

1898年4月24日から20年間に渡ってクレーは日記をつけ始めた。この日記により、クレーの若き日の克明な記録が残っている。高校を卒業したクレーは、1898年10月13日にミュンヘンに出て美術アカデミーに入学を希望した。しかし、この入学が許可されず、画家クニルの画塾へ通うようになる。この画塾に2年ほど通い、99年には画塾仲間のザルツァッハとブルクハウゼンに滞在し、銅版画の技術を学んでいる。

ミュンヘンに出て2年後の1900年10月にミュンヘン美術学校に入学が決まるが、結局、学校の教育に馴染めず翌年の初夏には学校を辞めている。その後、両親から金銭の工面を受けながらイタリア旅行などを経て、02年5月にベルンへ帰郷している。同年の10月からヴァイオリン奏者としてベルン音楽協会の非常勤奏者になり、僅かな収入を得ていた。この非常勤奏者の仕事は06年まで続き、若きクレーの生活を助けていた。

1906年9月15日に、ミュンヘン滞在時に知り合った女性リリーと結婚する。二人は、クレーがミュンヘンで画塾に通っていた頃に音楽を通じて知り合い、ベルンに戻った後も交際が続いていた。この結婚は親の反対にあったが、押し切る形で結ばれ、ミュンヘンで再び生活が始まった。クレー夫婦の家計は、妻リリーのピアノ教師の収入で支えられ、クレーは家事全般を引き受けていた。この当時は、アトリエの様な場所が用意できるはずもなく、キッチンで作品を描いていたようである。結婚の翌年には息子のフェリックスが生まれ、作品も室内の様子やベランダから見える景色など家事の片手間にしか絵を描くことは出来なかった。それから、近郊にスケッチに出れるのは息子が3歳になってからのことであった。

 

  • 画家としての始まり~色彩画家への転換期(1911-1919)

結婚後のクレーは、自分を素描画として見なし、線画作品を出版社に売り込んでいたが採用されることはなかった。1911年9月に、友人モワイエの紹介でアウグスト・マッケとカンディンスキーと知り合う。その翌年には、カンディンスキーの主宰する「青騎士」グループに参加し、展覧会に17点の作品を出品している。

クレーの大きな転機となったのは、1914年の春のこと。モワイエやマッケとチュニジア旅行に出かけ、「色彩は私を永遠に捉えた」という有名な言葉と共に色彩画家へと変貌する。この言葉は日記に記されたものであるが、現在では、後から書き加えたのではないかと考えられている。クレーは、自らが残した記録に加筆修正をして、自己演出を積極的に行っているが、対外的な宣伝も含まれていたと考えられる。チュニジア旅行は4月6日から4月22日まで行われたが、この身近な期間がクレーの画家としての道に大きな影響を与えたのは確かである。

1914年は、クレーの画家人生にとって大きな意味があったが、同時に世界情勢も変動し、第一次世界大戦が勃発した。大戦が始まってすぐに、マッケが戦死し、2年後の1916年には、信頼を寄せていた「青騎士」グループのフランツ・マルクも戦場で撃たれて死亡した。クレーも、16年3月11日にドイツ軍に召集されている。その後、19年に兵役が解除され、ミュンヘンのゴルツ画廊と契約を結び、ようやく満足に画家として活動できるようになった。

  • バウハウス時代~(1920-1933)

1919年、敗戦直後のドイツに総合工芸学校「バウハウス」が誕生する。急遽、現れたように見えるが、バウハウスの前身は1904年開校のヴァイマール大公立工芸美術学校であり、新体制で再出発したのがバウハウスである。このバウハウスは、建築家のグロピウスが初代学長に選ばれ、後世への影響は計り知れない。クレーは、1920年10月にバウハウスの教授として招かれ、翌年1月から授業を始めた。これにより、15年間の無名時代と決別し、一画家としての地位が確立されている。10月には、13歳の息子フェリックスもバウハウスに入学している。

バウハウスでは、安定した報酬の元で画業に専念でき、クレーの喜びも一入であった。バウハウス自体は、苦難の連続であり、反対する勢力の拡大によって開校から僅か5年後の1924年に閉鎖されている。しかし、デッサウ市がバウハウスを受け入れたことにより、復活するがやがてナチス政権により廃校に追い込まれてしまう。

時代に翻弄されたバウハウスでの教師生活であったが、クレーの制作活動は実りの多い時代で、1925年11月には、パリで開催された「シュルレアリスト展」にキリコやピカソと共に作品が展示されている。また、30年3月~4月には、前年にミュンヘンで行われた個展がニューヨーク近代美術館で巡回され、6月にはデュッセルドルフ美術学校から教授として招待されるなど、画家としての地位は更に確かなものとなっていた。

翌年の31年4月にバウハウスを辞任し、デュッセルドルフ美術学校教授に就任。順風満帆な生活が始まったと思った矢先、33年4月にヒトラー政権の台頭と共に突如、美術学校から解雇されデッサウの自宅がナチスによって家宅捜索される。12月には、ナチスの迫害から逃れるべく、一家でスイスに逃亡しクレーの人生は大きく変わってしまった。

 

  • 晩年~死去(1934-1940)

ナチスから逃れるために、家財道具も作品も置いたままスイスに亡命したクレーは、ベルンの町外れの安いアパートに住み始め、亡命前に置いてきた荷物を待った。翌年の1935年2月にベルンの友人たちがクレーを支援する為に大規模な展覧会を開く。この展覧会には、バウハウス時代の作品270点が展示され、大半が売れていった。財政面での難は逃れたようだったが、同年11月に皮膚硬化症の兆候が出始める。この病気は、クレーを確実に蝕んでいき、彼の晩年を苦しめることになる。発病後は、刻一刻と寿命が近づき、それに抗うようにクレーは作品制作に熱を入れた。今まで描いたことのないような大作を次々に制作し、それらの作品は晩年様式と呼ばれ評価されている。

1940年には60歳の誕生日を記念して2月16日~3月25日にチューリッヒで213点の回顧展を開催した。その後も、南スイスの療養所に入院する5月初旬まで作品制作を辞めることはなかった。そして、6月29日の朝にロカルノ近郊のサンタニューゼ療養院にて、心筋炎による心臓麻痺で死去した。60歳だった。


【作品一覧】画像かタイトルをクリックすると詳細が表示されます

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『無題(湖の樹々のある秋の風景)』 1902年作 油彩・厚紙 28.5cm×32.5cm

 

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『ミュンヘンの室内』 1908年作 水彩・厚紙 18.7cm×20.7cm

 

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『少女と瓶』 1910年作

 

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『ばけつとじょうろ』 1910年作

 

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『パリスケッチ』 1912年作

 

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『語らうミュンヘンの警官』 1913年作 水彩・厚紙 27.7cm×21cm

 

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『雨模様の小風景』 1913年作 水彩・厚紙 20cm×12cm

 

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『チェニス近郊のヨーロッパ人植民地、サンジェルマンの庭』 1914年作

 

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『チェニス近郊のサン・ジェルマン』 1914年作

 

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『サン・ジェルマンの眺め』 1914年作

 

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『サン・ジェルマン(若いヤシの木と共に)』 1914年作

 

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『小さな港』 1914年作

 

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『二つのオリエンタルな水彩画』 1914年作

 

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『カイルアン』 1914年作

 

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『チュニジアのスケッチ』 1914年作

 

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『カイルアンの情景』 1914年作

 

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『ハマメットのモチーフ』 1914年作

 

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『堅固な場所』 1914年作

 

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『カイルアン、門前にて』 1914年作

 

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『ある庭の思い出』 1914年作

 

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『木のリズム』 1914年作

 

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『三つのドームのある街』 1914年作

 

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『墓の都市』 1914年作

 

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無題 1914年作

 

 

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『オリエント体験』 1914年作

 

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『黄色いピラミッドと空間建築 冷-暖』 1915年作

 

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『透過 赤と緑』 1915年作

 

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『1915年87番の方法で』 1915年作

 

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『黄色い家』 1915年作

 

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『シュヴァービングと薔薇色の家』 1915年作

 

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『ああ、我が苦悩を更に深むるもの、それは我が苦しみを察することなき汝なり』 1916年作 水彩・厚紙 7cm×24cm

 

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『隠者の住むことろ』 1918年作 水彩・厚紙 18.4cm×25.9cm

 

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『かつて夜の灰色から浮かび上がった色彩文字』 1918年作 水彩・厚紙 22.6cm×15.8cm

 

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『E』 1918年作 水彩・厚紙 22cm×18cm

 

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『エジプトに捧げる小さなヴィネット』 1918年作 水彩・厚紙 16.8cm×8.9cm

 

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『花の神話』 1918年作 水彩・厚紙 29cm×15.8cm

 

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『月は昇り、陽は沈む』 1919年作 油彩・厚紙 40.5cm×34.5cm

 

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『いにしえの庭園の植物』 1919年作 水彩・厚紙 13.8cm×20.9cm

 

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『アスコーナ』 1920年作

 

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『針葉樹のある夢の風景』 1920年作

 

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『海辺の家々』 1920年作

 

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『新しい天使』 1920年作 水彩・厚紙 31.8cm×24.2cm

 

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『リズミカルな森のラクダ』 1920年作 油彩・厚紙 48cm×42cm

 

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『寺院』 1921年作

 

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『襲われた場所』 1922年作 水彩・厚紙 32.8cm×23.1cm

 

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『夕景の分析』 1922年作 水彩・厚紙 33.5cm×23.5cm

 

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『バラの風』 1922年作 水彩・厚紙 42cm×48.5cm

 

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『人形劇場』 1923年作 水彩・厚紙 52cm×37.6cm

 

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『魔法劇』 1923年作 水彩・厚紙 33.6cm×22.8cm

 

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『金色の魚』 1925年作 油彩・厚紙 49.6cm×69.2cm

 

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『肥沃な国に立つ記念碑』 1929年作 水彩・厚紙 45.7cm×30.8cm

 

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『本通りと脇道』 1929年作 油彩・カンヴァス 83.7cm×67.5cm

 

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『ピラミッド』 1930年作 水彩・厚紙 31.2cm×23.2cm

 

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『征服者』 1930年作 水彩・厚紙 40.5cm×34.2cm

 

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『来るべきもの』 1933年作 糊絵具、木炭・厚紙 61.6cm×46cm

 

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『喪に服して』 1934年作 水彩・厚紙 49cm×32.1cm

 

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『発明』 1934年作 水彩・綿布、合板 50.5cm×50.5cm

 

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『憩えるスフィンクス』 1934年作 油彩・麻布 90.5cm×120.5cm

 

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『病める果実』 1934年作 水彩、油彩・厚紙 30.5cm×46.4cm

 

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『不安定な道しるべ』 1937年作 水彩・厚紙 43.8cm×20.9cm

 

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『ビリッヒ』 1938年作 糊絵具・厚紙 27.5cm×21cm

 

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『ドゥルカマウラ島』 1938年作

 

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『ル(ツェルン)近くの公園』 1938年作 油彩・新聞紙、黄麻布、カンヴァス 100cm×70cm

 

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『墓地』 1939年作 糊絵具・厚紙 337.1cm×49.5cm

 

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『美しい女庭師(ビーダーマイヤーの亡霊)』 1939年作 油彩・黄麻布 95cm×70cm

 

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『この星はお辞儀をさせる』 1940年作 糊絵具・厚紙 37.8cm×41.3cm

 

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無題 1940年作 油彩・カンヴァス 100cm×80.5cm

 

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『死と浄火』 1940年作 油彩・黄麻布 46cm×44cm