ポール・ゴーギャン 【略歴と作品一覧】

Paul Gauguin

ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン, 1848年6月7日 – 1903年5月8日)は、フランスのポスト印象派の画家。姓は「ゴギャン」「ゴーガン」とも。クロワゾニスムと、総合主義(別称:サンテティスム)によって新たな表現様式を確立した。フィンセント・ファン・ゴッホとの共同生活で知られる。

 


【略歴】

  • 誕生~世界の海を旅した青年期(1848-1871)

ゴーギャンは、1848年にパリで父クロヴィスと母アリーヌの元に生まれた。父は共和派のジャーナリストで母は社会主義思想の女性作家フローラ・トリスタンの娘であった。ゴーギャンは生まれながらの環境から、平等を重んじる思想と貧困に対する関心が強かったと考えられる。ゴーギャンは生まれた翌年には、共和派への弾圧を避けるためにペルーのリマへ赴いた。この際に、父クロヴィスはペルーへ向かう船内で急死したが、残る家族は無事にペルーへ着き歓迎された。ゴーギャンはこのペルーの地で6年間生活していた。

ゴーギャンが7歳の時、父方の祖父の死去をきっかけに、再び一家はフランスに戻り、オルレアンで生活を始めた。オルレアンで生活していたゴーギャンは、中等神学校に進学したが14歳の時に退学し、母が出稼ぎに行っていたパリへ移った。17歳の時には船員として働き、南米など世界各国を航海している。この時の異国との出会いは、ゴーギャンの人生にとって大きな意味を持ち、後の作品でも南国をテーマにしたものが多い。19歳のゴーギャンが世界を航海している頃、母アリーヌが41歳の若さで死去しているが、航海中であったため母の最期を看取れなかった。

1868年、20歳の頃に船乗りの経験を生かし、海軍へ入隊した。この際も、ゴーギャンはヨーロッパ以外の世界への関心が高かったと思われる。海軍では71年までの3年間で、エーゲ海や地中海、バルト海などを航海していたが、その後、除隊となりパリへ戻って生活を始める。

 

  • 画家としての出発~印象派への挑戦(1871-1885)

パリに移り住んだゴーギャンは、パリ株式取引所で働き始める。この職場でエミール・シュフネッケルと出会う。アマチュア画家であったシュフネッケルの誘いに乗り、画塾に通い始めたゴーギャンは絵画の関心を高めていった。またこの頃、印象派の画家カミーユ・ピサロにも出会ったことで、印象派への関心も高まり、ゴーギャンが画家として歩むきっかけになっている。私生活では、1873年に2歳年下のデンマーク人女性メット=ソフィー・ガットと結婚し、74年から83年にかけて4男1女が生まれている。

画家として出発を始めたゴーギャンは、ピサロとの出会いから2年後にはサロンへ出品し入選している。それから更に3年後の79年にピサロと親交を深めるうちにドガとも親しくなっていた。この年には第四回印象派展に7点の作品を出品しているが、交友関係が分かれば自然流れだと理解できる。続いて80年の第五回印象派展、81年の第六回印象派展に続けて作品を出品している。しかし、この頃まではあくまで主体は株式仲介人の仕事で、休日画家としての活動を続けていた。

82年に、第七回印象派展に出品しているが、この年に金融恐慌が起こり本職の株式仲介人の仕事を辞める決意をする。翌年の1月には仲介人の仕事を辞め、本格的に画家として生きていく道を歩み始めた。それから暫くは経済的に困難な生活が続き、84年には物価の高いパリからルーアンに移住した。しかし、生活苦はゴーギャンの家族をも苦しめ、一時的な別居や妻の両親との関係悪化を招き、ゴーギャンにとって辛い日々が続く。翌年85年にはゴーギャンはパリに戻りポスター貼りなどの仕事で日銭を稼ぐ生活を送っている。

 

  • 独自の表現の探究~南国への憧れ(1886-1890)

1886年に最後の印象派展となった第八回展に出品した。第八回では、当初の印象派メンバーは出品しておらず、ジョルジュ・スーラなどの若き画家の作品が多く出た。これより、印象派の時代は幕を閉じ、新たな時代である「後期印象派」が始まったと言われる。ゴーギャンも印象派の表現から脱却し、独自の表現を求めて活動する時期が始まった。同年にブルターニュ地方のポン=タヴェンに赴き「ここに野生と、プリミティヴ(原始的)なものを見出す」と記している。ここからゴーギャンの画家としての方向性が大きく動き出したと言える。また、同時期にフィンセント・ファン・ゴッホと出会い行動を共にしたことも彼の人生では大きな意味を持っていた。

1888年は、エミール・ベルナールとの出会いとゴッホとの南仏旅行からの共同生活などゴーギャンにとって激動の年と考えられる。ベルナールからは、彼の「クロワゾニズム」を学び、後に『説教の後の幻影』で確立される「総合主義」までの道が開けた。ゴッホとの出会いは、黄色い家での有名な「耳切り事件」での共同生活の破綻で幕を下ろしたが、ゴッホの情熱的で絵画への狂気に近い感情に触れてゴーギャンの心境に変化があったことは想像に難くない。

89年、90年の2年間は総合主義の展覧会を開くなど、自身の画風の成熟と発展に尽力した時期である。また象徴主義の芸術家たちと積極的に交友を深めた記録がある。

 

  • タヒチ訪問~第1期タヒチ時代(1891-1894)

ゴーギャンは、1891年から本格的にタヒチに渡り精力的に活動を始めた。独自の画風の展開を進める中で、「野生」と「情熱」という表現したい明確な対象が出来たことで南国への憧れが強くなっていた。前年の秋から計画を立て、91年2月には旅行費の工面の為に自身の作品を競売にかけている。この頃のインタビューでタヒチに行く目的を聞かれ「文明の影響からの解放」や「汚れのない自然の中で自分を鍛え直し、野生人にしか会わず、生きる必要がある」と語っている。彼は成人してから度々世界を旅し(航海し)世界の人々と触れ合った結果、南国の太陽の元に生命の起源と自らの夢を見出していたのである。

91年4月にマルセイユ港から旅立ったゴーギャンは、6月にはタヒチのパペーテに到着した。タヒチでは、現地女性のテハマナと同棲しながら作品制作を行っていた。その翌年6月にフランスに帰国し、パリで初めてタヒチで制作した作品が展示されている。この時期に、ブルターニュで制作を行っているが、主な関心はタヒチで見たイメージを反芻しながら展開していく事であった。

 

  • 第2期タヒチ時代(1895-1900)

1895年は再びタヒチに向かうべく、2月に47点の作品を競売にかけ旅行費を工面しようとした。しかし、実際に売れたのは9点のみ(うちドガが2点を買った)であった。この競売での失敗の要因に、前年に行ったタヒチ作品の個展での反響が思わしくなかったことが挙げられる。この時期はまだゴーギャンの作品の評価は良くなかったようである。思うような資金を集められなかったゴーギャンは失意の中でタヒチに旅立ち、9月にパペーナに到着した。

現地では制作の傍ら、現地の女性パウラと同棲を始め、96年12月には二人の間に子供が産まれるがすぐに死去した。翌年4月には長女アリーヌの死の知らせを聞き、立て続けの不幸から体調が悪化。この精神的、肉体的な苦痛を作品にぶつけた『我々はどこから来たのか,我々は何者か,我々はどこへ行くのか』を12月に制作した。この頃、砒素を飲んで自殺を図っている(未遂で終わる)ことから『我々はどこから来たのか・・・』はゴーギャンの遺書的な作品であるとされている。

 

  • 入院を繰り返す苦痛の時代~死去(1901-1903)

自殺未遂を図り、苦しみにもがいていたゴーギャンは、1901年9月にタヒチを離れマルケサス諸島のヒヴァ=オア島に移り住んだ。ここで新たな家を建て、自身の芸術を最終段階まで完成させる為に活動を続けていた。11月に書いたモンフレー宛てた手紙の中で「ここにひとりでいると鍛え直される。<中略>私の芸術をある段階まで完成させることができるだろう。」と記している。

その後、1903年に死去するまでの2年間は制作を進めて行ったが、紙面への寄稿を取り下げられたり、名誉棄損で禁固刑と罰金を宣告されるなど苦悩の日々は続いていた。禁固刑が宣言された1903年3月に控訴の準備を始めていたが、この時にはもう体力的にも限界が来ており、その僅か2か月後の5月8日に突然倒れそのまま死去した。54歳であった。

この時、ゴーギャンの死の一報はフランスに届くことなく、財産などは9月5日の競売にかけられ処分された事で、ゴーギャンの晩年の記録が失われてしまったと指摘されている。

 


【作品一覧】画像かタイトルをクリックすると詳細が表示されます

 

matome700

『裸婦習作(縫い物をするシュザンヌ)』 1880年作

 

matome703

『ゴーギャンの家の広間(カルセル街の画家の室内)』 1880年作

 

matome1

『雪景色』 制作年不明(1883年付近) 油彩・カンヴァス 117cm×90cm 個人蔵

 

matome2

『画架に向かうゴーギャン』 1885年作 油彩・カンヴァス 65cm×54.3cm 個人蔵

 

matome3

『マンドリンのある静物』 1885年作 油彩・カンヴァス 64cm×53cm オルセー美術館

 

matome4

『ディエップの海岸』 1885年作 油彩・カンヴァス 71.5cm×71.5cm ニイ・カールスベルク彫刻館

 

matome5

『馬の首のある静物』 1885年作 油彩・カンヴァス 49cm×38cm ブリヂストン美術館

 

matome704

『四人のブルターニュの婦人』 1886年頃作

 

matome6

『四人のブルターニュ女のための習作』 1865年作 油彩・カンヴァス 90cm×150cm キンベル美術館

 

matome7

『ラヴァルの肖像のある静物』 1886年作 油彩・カンヴァス 46cm×38cm ジョゼフォヴィッツ・コレクション

 

matome8

『マルティニック島の熱帯植物』 1887年作 油彩・カンヴァス 116cm×89cm スコットランド国立絵画館

 

matome9

『水浴する2人の少女』 1887年作 油彩・カンヴァス 92cm×72cm ブエノスアイレス国立美術館

 

matome705

『説教の後の幻影(ヤコブと天使の闘い)』 1888年作

 

matome701

『アルル、葡萄の収穫(人間の悲劇)』 1888年作

 

matome707

『ひまわりを描くゴッホ』 1888年作

 

matome702

『自画像(レ・ミゼラブル)』 1888年作

 

matome709

『アルルの病院の庭にて(アルルの老女たち)』 1888年作

 

7c4869fe

『アルルの洗濯女』 1888年作

 

matome10

『三匹の子犬のいる静物』 1888年作 油彩・カンヴァス 88cm×62.5cm ニューヨーク近代美術館

 

matome708

『こんにちは、ゴーギャンさん』 1889年作

 

matome710

『光輪のある自画像』 1889年作

 

matome712

『黄色いキリスト』 1889年作

 

matome706

『アルルの夜のカフェにて』 1889年作

 

matome713

『ハムのある静物』 1889年作

 

matome11

『海辺にたつブルターニュの少女たち』 1889年作 油彩・カンヴァス 92cm×73cm 国立西洋美術館

 

 

matome13

『オリーブ園のキリスト』 1889年作 油彩・カンヴァス 73cm×92cm ノートン絵画館

 

matome14

『ひまわりを伴うカリブの女』 1889年作 油彩・カンヴァス 64cm×54cm 個人蔵

 

matome15

『海草を収穫する人々』 1889年作 油彩・カンヴァス 87.5cm×123cm フォルクワング美術館

 

matome714

『清純の喪失:春の目覚め』 1890-91年作

 

matome456

『タヒチの女たち』 1891年作

 

matome715

『イア・オラナ・マリア(マリア礼賛)』 1891年作

 

matome16

『ファートゥルマ(夢想)』 1891年作 油彩・カンヴァス 92cm×73cm ネルソン=アトキンズ美術館

 

matome17

『食事(バナナ)』 1891年作 油彩・カンヴァス 73cm×92cm オルセー美術館

 

matome716

『マンゴーを持つ女』 1892年作

 

matome717

『アレアレア』 1892年作

 

matome718

『ナフェア・フェア・イポイポ』 1892年作

 

matome721

『マナオ・トゥパパウ』 1892年作

 

matome18

『タ・マテーテ(市場)』 1892年作 油彩・カンヴァス 73cm×92cm バーゼル美術館

 

matome19

『ファタータ・テ・ミティ(海の近く)』 1892年作 油彩・カンヴァス 68cm×91.5cm ワシントン国立絵画館

 

matome20

『タヒチの牧歌』 1892年作 油彩・カンヴァス 86cm×113cm エルミタージュ美術館

 

matome723

『ヒナ・テ・ファトゥ(月と大地、月と地球、月と地の神)』 1893年作

 

matome720

『エア・ハエレ・イア・オエ?』 1893年頃作

 

matome719

『ジャワ女』 1893-94年作

 

matome724

『マハナ・ノ・アトゥア(神の日)』 1894年作

 

matome711

『緑のキリスト(ブルターニュのキリスト磔刑像)』 1894年作or1889年(詳細調査中)

 

matome22

『雪の村』 1894年作 油彩・カンヴァス 65cm×90cm オルセー美術館

 

matome21

『パレットをもつ自画像』 1894年頃作 油彩・カンヴァス 92cm×73cm 個人蔵

 

matome725

『ヴァイテ・グーピルの肖像』 1896年作

 

matome726

『ナヴェ・ナヴェ・マハナ:かぐわしき日々』 1896年作

 

matome722

『ネヴァモア(横たわるタヒチの女)』 1897年作

 

matome727

『我々はどこから来たのか,我々は何者か,我々はどこへ行くのか』 1897年作

 

matome728

『白い馬』 1898年作

 

matome729

『叫び声』 1902年作

 

matome730

『妖術使い:ヒヴァ・オア島の魔法使い』 1902年作

 

matome731

『未開の物語』 1902年作

 

matome23

『扇を持つ女』 1902年作 油彩・カンヴァス 92cm×73cm フォルクワング美術館