狩野芳崖【略歴と作品一覧】

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狩野 芳崖
(かのう ほうがい、文政11年1月13日(1828年2月27日) - 明治21年(1888年)11月5日)は、幕末から明治期の日本画家で近代日本画の父。幼名は幸太郎。名は延信(ながのぶ)、雅道(ただみち)。号は松隣、皐隣。盟友たる橋本雅邦と共に、日本画において江戸時代と明治時代を橋渡しする役割を担うと共に、河鍋暁斎、菊池容斎らと狩野派の最後を飾った。

 


【生い立ち】
狩野芳崖ほど苦難の人生を歩んだ日本画家は珍しい。彼の生涯は幕末・維新の混乱期に費やされ、画家として評価されたのは晩年の数年に過ぎなかった。その間、芳崖は忍耐強く自分の作品を磨き、日本画の近代化に大きく貢献したのである。

芳崖の家系は代々長府藩(下関市豊浦郡一帯)の御用絵師であった。初代狩野幸信、二代目周俊、三代目陽信、四代目董信と代を重ねていた。この四代目董信が芳崖の父にあたる人物である。狩野家は御用絵師としては自由で進歩的な性格をしていた。というのも長府藩は藩主毛利綱元自らが作品を描いてしまうほど狩野家へのこだわりが薄く、逆に藩の経費で芳崖の江戸留学が決まるほど自由に画家活動が出来ると言った側面があった。

芳崖は文政11年(1828年)1月13日に長府印内で生まれた。幼名は幸太郎、14歳より松隣、松林と号し、一時は惶信と名乗っていたが、16歳で元服し名を延信とし皐隣と号した。19歳の時に江戸へ出て狩野勝川院雅信の元で学ぶ。この江戸へ出る以前に幾つかの作品を残しているが、それを見ると芳崖が狩野派の他に大和絵の手ほどきを受けていたことが分かる。勝川院での勉強を3年で終えた芳崖は師の雅信の助手として描いていたが、師との色彩論争をしばしば繰り返し破門の危機を幾度と迎えていた。このように芳崖が我が道を突き進もうとするのには理由があった。それは減筆体(筆数が少ない)で簡略化を極める江戸狩野派より雪舟の空間表現を手本としようとする為であった。その為、師匠ならず、狩野派の画家たちの手法を避難していたのである。この雪舟的な空間表現は初期の芳崖の作品を見れば明らかである。

芳崖の苦難は幕末より始まる。池田屋事件などで幕府と長州藩の争いが激しくなった為、芳崖は勝川院にとどまるわけにいかず、江戸を離れることとなる。国に帰った芳崖は海辺測量に従事してながら作品制作を続けた。しかし、明治維新などが進んでいた当時の日本では、芳崖のような前衛的な絵画は評価されず長らく彼の作品は日の目を浴びることはなかった。

芳崖の評価を妨げていたのの一つに『国粋主義』の反発があった。明治維新後に急激な欧米化の為に、自国の文化を守ろうとする国粋主義が、前衛的な手法を否定していたのである。芳崖は自身の作品に欧米の構図などを参考にしたものがあり、当時の人達は受け入れることが出来なかったのである。しかし、近代化も進んだ日本はやがて欧米文化の浸透と共に、徐々に芳崖の作品は評価され、『悲母観音像』が日本画近代化のモニュメンタルとして受け入れられたのである。

その後、肺炎を患った芳崖は明治21年(1888年)11月5日に「あと三日欲しい」と言い残して亡くなった。61歳であった。

 


【作品一覧】
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『四季花鳥図』 1843-46年(天保14-弘化3年) 39cm×39cm

「皐隣」の落款と「延信」の朱文印があることから16-19歳の作品と考えられる。樹木や枝の表現は狩野派の影響を見て取れるが、画面右下の椿、上方の桜などは土佐派の描き方である。全体に動物を自由に配置しながら手慣れた手法で描かれていることから「百花百鳥画冊」を試作としてその後に制作されたことが分かる。画面全体の構図は隙間なく動物や雲煙で埋められていることが狩野派と一線を画していたと読み取れる。しかし、中央の枝ぶりなどを見ると、芳崖の目指した雪舟の描き方というよりは雪村の画風に近いように感じられる。

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『百貨百鳥画冊』 1842年(天保13年) 38.2cm×28.9cm

芳崖の初期の色彩感覚や画力を考察することのできる作品。筆の運びはやや堅いが細部まで丁寧に書き込まれている。特に注目すべきは、動物の身体をぼかして描くことで立体感を表現しようとしていることである。この描写は他の実景描写によって会得したと考えられる。非常に実験的で他の作品との比較により芳崖の成長の様子が読み取りやすい作品である。

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『雪景山水画』 1843-46年(天保14-弘化3年) 49cm×35.5cm 豊浦小学校所蔵

芳崖の雪舟からの影響は早くから始まり、この作品でもその一端が読み取れる。基本の描き方は狩野派の主流であるボキボキとした稜角の多い線描ではあるが、画面左下の橋や枯れ木、中央の松の葉の蟹瓜法的なタッチ、その右の三角形の樹葉、雪でかすむ遠景などはまさに雪舟の作風である。

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『東山眺望図』(部分) 1864年(元治元年) 157.6cm×328cm

もとは襖絵であったものを最近になって芳崖の重要な作品の一つであると評価されるようになった作品。中央には知恩院が見え、右には清水寺の回廊が見え(上の画像では右半分は切れているので清水寺部分は見えない)、上には比叡山が見える。南画調で描かれ、芳崖が新たな境地に入ったことが分かる作品である。

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『雪景山水図』 1868年(明治元年) 162cm×173cm 長府博物館所蔵

落款と印章がない為、恐らくもう半分の部分が描かれていたのではないかと考えられている。画風から芳崖の作品に間違いない。雪舟の作風から南画風の作風に近づこうとしていることが分かる。

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『ふくろう』 1868年(明治元年) 117.5cm×50.3cm

ふくろうは英知の象徴とされ多くの画家が描いている。しかし、大半は正面を向き、瞳は中央に描かれるが、芳崖のふくろうは周囲を見渡し、目は下を向いている。その為、姿勢は変形し肩の上がったふくろうになっている。芳崖はモチーフの動きを表現し、生き生きとした描き方をするのが特徴である。

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『谿間雄飛』 1885年(明治18年) 91cm×167cm ボストン美術館所蔵

芳崖独特の先の尖った崖に大鷲が二羽とまっている。一羽は獲物をとらえ、一羽は今から獲物を狙わんと姿勢を整えて飛び立とうとしている。左上にも一羽おり、こちらは鋭い眼光で飛んでいる最中である。

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『牧童』 1887年(明治20年) 92cm×46.2cm 東京芸術大学芸術資料館所蔵

この時期より雪舟の影響は完全に消え、近代画の一歩を踏み出している。牛の大きさは緻密に計算され、全体の構図を支配している。その重厚な牛の背に童が笛を吹いている。背景に淡い遠景が描かれているが、小川の境界のS字の構図と、牛の背中のS字がリンクしているのが分かる。

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『仁王捉鬼』 1886年(明治19年) 123.8cm×64cm

落款はないが、明治19年の鑑画会大会に出品され一等賞を受賞した作品。鮮やかな色使いで仁王が塗られ、初期の画風から少しづつ姿を現していた芳崖の色彩感覚が発揮されている。仁王の後ろにはシャンデリアのようなものが描かれていることから欧米の文化に興味を示していたことが分かる。

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『不動明王図』 1887年(明治20年) 158.3cm×79cm 東京芸術大学芸術資料館所蔵

不動明王が鋭い目で座しているが、非常に筋肉質でゴツゴツとした身体の描き方になっている。色合いはやや抑えめだが、グレーでまとめられながらも不動明王の衣装などは芳崖独特の色使いが垣間見れる。また岩のようなものに囲まれているが、この場所は秋芳洞(山口県)であると考えられる。

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『悲母観音像』 1888年(明治21年) 196cm×86.4cm 東京芸術大学芸術資料館所蔵

芳崖が死の直前まで描いていた作品。この作品を描く前に「観音下図」などの習作を描いた上で描かれている。日本画の近代化の一番最初の象徴的な作品となった。習作より柔らかく描かれた観音は図像的な性格を捨て、優雅な風格を現している。色彩は豊かであるが「仁王捉鬼」のような極彩色からはトーンダウンさせて落ち着いたイメージである。背景の黄金色が非常に神々しく描かれ、観音の神秘的な側面を強調している。

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『飛龍戯児図』 1885年(明治18年)

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『渓山幽趣』