クロード・モネ
(Claude Monet, 1840年11月14日 -1926年12月5日)は、印象派を代表するフランスの画家。「光の画家」の別称があり、時間や季節とともに移りゆく光と色彩の変化を生涯にわたり追求した画家であった。モネは印象派グループの画家のなかでは最も長生きし、20世紀に入っても『睡蓮』の連作をはじめ多数の作品を残している。ルノワール、セザンヌ、ゴーギャンらはやがて印象派の技法を離れて独自の道を進み、マネ、ドガらはもともと印象派とは気質の違う画家だったが、モネは終生印象主義の技法を追求し続けた、もっとも典型的な印象派の画家であった。
フルネームは当初オスカル・クロード・モネ(Oscar Claude Monet)であったが、本人がオスカルの名を好まなかったため、通常は「クロード・モネ」と名乗っていた(改名したのかどうかは不詳)。
【略歴】
- 誕生~幼少期(1840-1857)
オスカー・クロード・モネは、1840年に父クロード・アドルフ・モネと母ルイーズ=ジュスティーヌの間に生を受けた。父は若い頃は船員見習いをしていたが、モネが生まれた時には職業がはっきりとしておらず、経済的な理由から異母姉のマリー=ジャンヌ・ルカードルを頼ってル・アーヴルに移り住んでいる。この異母姉は「ルカードル伯母」と呼ばれており、裕福な商人のジャック・ルカードルに嫁いでいた。このルカードル伯母は絵画を愛好しており、幼いころから身近に絵画があったモネが、画家を志すきっかけになっていると考えられる。
少年時代のモネは公立の中学校に通っていたが、勉強嫌いでしばしば授業を抜け出して海岸を散歩したと本人が証言している(誇張表現であるとの指摘もある)。このような経験が画家モネの自然への関心や表現力に繋がったのは確かであろう。学校ではフランソワ=シャルル・オシャールから素描などを学んでいた。当時から似顔絵などの作品が評判を呼び、モネ自身にも画家として生きていく自信があったのか16歳の時には学業を放棄したと語っている。実際には、1857年1月28日に母が亡くなったことをきっかけに学校を去り本格的に画家の道を歩むことになった。
- 青年~パリ修業時代(1858-1864)
学校を去って本格的にカリカチュアを売り始め、1枚20フラン(約2万円)の値が付けられていた。17歳の時には額縁屋の紹介でウジューヌ・ブーダンと知り合った。この出会いがモネに大きな影響を与え、後年には「私が画家になれたのは、ウジューヌ・ブーダンのおかげ」と語るほどであった。18歳の時にブーダンと共に戸外制作を行い『ルエルの眺め』を制作している。この作品が展覧会に出品され、その勢いのまま翌年にはパリで絵画を学ぶために旅立っている。
1859年の春にパリへ修行に出たモネは、開催中のサロンや画家たちのアトリエを訪れ交流を深めた。アカデミーへ登録を済ますと夜は居酒屋に入りびたり、仲間たちと語り明かしていた。しかし、そのような自由な生活は徴兵で終止符を打たれた。その後、病気によって兵役を中断され62年秋にはパリへ舞い戻っている。この時にシャルル・グレールのアトリエに入り、オーギュスト・ルノワール、アルフレッド・シスレー、フレデリック・バジールなどと知り合っている。グレールのアトリエは1864年に閉鎖されてしまい、画家たちは自らの力でサロンを目指すことになった。
- サロンへの挑戦~印象派の始まり(1865-1870)
サロンを目指して精力的に活動していたモネは、1865年に2点の入選、翌年にも1点入選を果たしている。この当時はバジールのアトリエでモネとルノワールが一緒に制作をしており、バジールは経済的にもモネを支援していた。1869年の夏にはセーヌ河岸のラ・グルヌイエールで三人で制作しており、この時点で「印象派」が成立したという歴史家も多い。しかし、この頃の作品はサロンの受けが悪く、制作した『ラ・グルヌイエール』も落選している。逆に読み取るなら、この落選は絵画の新たな時代が始まることを暗示していたのかもしれない。
60年代後半にはサロンで評価されないことにより、モネ達のグループは自らグループ展を開こうと考え始めたが、70年に普仏戦争が勃発しグループ展の開催は74年まで持ち越されることとなった。この激動の70年にカミーユと入籍し、徴兵から逃れるためにロンドンへ移住している。一方、戦争に参加したバジールは、グループ展の実現を見ることなく同年に戦死している。
- 印象派の挑戦~経済難と孤独(1871-1882)
ロンドンへ逃れたモネは画商のデュラン・リュエルと知り合い、帰国後もデュランはモネから作品を購入していた。この頃はフランス経済の復興により絵画市場に資金が流れてきた事により、画家たちは好景気であった。モネも画家として円熟した年頃になり意欲的に活動を進め、デュランの助けと好景気の勢いに乗り裕福な生活を送っていた。そんな中、1874年にはかねてより構想していたグループ展、後に「第一回印象派展」と呼ばれる展覧会を開催した。この展覧会で若き芸術家30人が出品し、印象派の画家たちが世に知られる大きなきっかけとなった。印象派展は翌々年の76年に第二回、更に翌年の77年に第三回と開催され、86年までに計8回開催されている。
第一回印象派展で大きな成果を残したモネだったが、翌年の75年にはフランス経済の急激な後退の煽りを受け状況は悪くなっていく。最大の顧客であったデュラン・リュエルが破産し、モネ一家は深刻な経済難に陥ってしまう。78年にはアルジャントゥイユの大きな家を立ち退き、パリへ向かった。パリでは79年に最愛の妻カミーユを亡くし、仲間からも距離を取り始めていた。1880年にサロンへ2点出品したが、この作品が仲間内で批判を買い、ドガなどの画家たちと軋轢を生じてしまった。私生活も好転することなく、孤独と貧困に苦しむ生活が続いていた。
- 自らの絵の追求~自然の探究(1883-1898)
1870年代に制限が多いサロンへの息苦しさを感じたモネは、より自由な作品制作を行う為にサロンへの出品を諦めた。1880年代は私生活の苦悩と戦いながら精力的に旅へ出て自然の魅力を己の中に蓄えていった。この頃から、より自然の表情の変化を表現する為に、連作という手法を確立していった。刻一刻と変わる風景を同じ構図の中に納めていくことで、よりはっきりと変化を絵画化していった。
1883年4月からジヴェルニーへ移り住み、地方を行脚しながら作品を制作している。同年にはルノワールと南仏旅行、84年にブルターニュ地方のベリールに滞在、89年にグルーズ渓谷に滞在している。その地方ごとに作品が制作され、多くの名作を残しながら晩年の『睡蓮』への道を歩み始めている。
私生活では、92年にアリス・オシュデと結婚し、長く続いた孤独との葛藤を幾らか和らげていた。その翌年にはジヴェルニーの家に隣接する土地を購入し、水の庭園造りを始めた。97年に第二のアトリエを敷地内に建設し、本格的に庭の睡蓮を描き始めている。
- 睡蓮の始まり~死去(1899-1926)
水の庭園が本格的に整備され、池や草木の茂みが思うような形になった頃、『睡蓮』の制作が始まった。この作品群は300点程度制作され、モネの睡蓮は、生涯の全作品数の7分の1を占め、モネの中で最大のテーマとなっていた。睡蓮の制作数は年を追うごとに増していき、彼の興味も深まっていったことが分かる。
1899年は親友のシスレーと義理の娘シュザンヌが亡くなっていたが、ジェルメーヌとロンドンへ出向いたりテムズ河の連作に着手するなどモネは制作意欲を失うことはなかった。70歳を超えた1911年からは妻アリスの死(1911)や白内障の悪化など幸先の悪い年あった。その後、1914年に長男のジャンが死去したことで、悲しみを乗り越える為より一層、睡蓮の制作に励んでいる。晩年のモネは自らの境遇を睡蓮の制作を通じて乗り越えていたようにも考えられる。
睡蓮は1915年より「大装飾画」の制作の為に専用のアトリエが建設され、5年後の1920年には国家寄贈されている。最晩年にして圧倒的な評価を獲得しながらモネの画風は更に印象の表現を研ぎ澄ましていた。そして、1826年12月5日、肺腫のためジヴェルニーの自宅で亡くなった。86歳の冬であった。
【作品一覧】画像かタイトルをクリックすると詳細が表示されます
『ラ・エーヴ岬の引潮』 1865年作 油彩・カンヴァス 90cm×150cm キンベル美術館
『ルーヴル河岸通り』 1867年作 油彩・カンヴァス 65cm×92cm バーグ市立美術館
『ルヴシエンヌの雪の道』 1869-70年作 油彩・カンヴァス 55cm×65cm 個人蔵
『テムズ河と国会議事堂』 1870-71年作 油彩・カンヴァス 47cm×73cm ロンドン国立絵画館
『グリーン・パーク』 1870-71年作 油彩・カンヴァス 34cm×72cm フィアデルフィア美術館
『ザーンダムの港』 1871年作 油彩・カンヴァス 47cm×74cm 個人蔵
『アルジャントゥイユの河畔の散歩道』 1872年作 油彩・カンヴァス 50.5cm×65cm ワシントン国立絵画館
『アルジャントゥイユの秋』 1873年作 油彩・カンヴァス 56cm×75cm コートールド研究所絵画館
『アルジャントゥイユの橋』 1874年作 油彩・カンヴァス 60cm×80cm ワシントン国立絵画館
『草原の夏』 1874年作 油彩・カンヴァス 57cm×80cm ベルリン国立絵画館
『アムステルダムのゾイデルケルク』 1874年頃作 油彩・カンヴァス 54.5cm×65.5cm フィアデルフィア美術館
Snow at Argenteuil (Neige à Argenteuil) 1874-75年
『アルジャントゥイユの赤いボート』 1875年頃作 油彩・カンヴァス 55cm×65cm オランジュリー美術館
『ヨーロッパ橋』 1877年作 油彩・カンヴァス 64cm×81cm マルモッタン美術館
『霧のヴェトゥイユ』 1879年作 油彩・カンヴァス 60cm×71cm マルモッタン美術館
『ヴェトゥイユの教会』 1879年頃作 油彩・カンヴァス 51cm×61cm サウザンプトン市立美術館
『流氷』 1880年作 油彩・カンヴァス 97cm×150.5cm シェルバーン美術館
『ラヴァクール』 1880年作 油彩・カンヴァス 100cm×150cm ダラス美術館
『西洋ナシと葡萄』 1880年作 油彩・カンヴァス 65cm×81cm ハンブルク美術館
Spring in Vethuil 1880年
Champ de coquelicots 1881年
『ヴァランジュヴィルの税関吏』 1882年作 油彩・カンヴァス 60cm×73cm ボイマンス=ファン・ブニンヘン美術館
『ヴァランシュヴィルの教会』 1882年作 油彩・カンヴァス 65cm×81cm バーバー美術研究所
『ボルディゲラ』 1884年作 油彩・カンヴァス 73cm×92cm サンタ・バーバラ美術館
『春』 1876年作 油彩・カンヴァス 65cm×81cm フィッツウィリアム美術館
『アンティーブ』 1888年作 油彩・カンヴァス 65cm×92cm コートールド研究所絵画館
『地中海の松、アンティーブ』 1888年作 油彩・カンヴァス 73cm×92cm 個人蔵
『草原の五人』 1888年作 油彩・カンヴァス 79cm×79cm 個人蔵
『フレスリーヌのクルーズの谷』 1889年作 油彩・カンヴァス 65cm×92cm ボストン美術館
『積藁、夏の終わり』 1890-91年作 油彩・カンヴァス 60cm×100cm オルセー美術館
『日没の積藁、霜の日』 1891年作 油彩・カンヴァス 65cm×92cm 個人蔵
『陽を浴びた積藁』 1891年作 油彩・カンヴァス 60cm×100cm チューリッヒ美術館
『三本のポプラ、秋』 1891年作 油彩・カンヴァス 92cm×73cm フィラデルフィア美術館
『ルーアン大聖堂、正面口、朝の効果』 1893-94年作 油彩・カンヴァス 100cm×65cm フォルクヴァング美術館
『睡蓮の池』 1899年作 油彩・カンヴァス 89cm×93cm ロンドン国立絵画館
『ウォータールー橋』 1900-03年頃作 油彩・カンヴァス 65cm×100cm カーネギー研究所
『睡蓮』 1916-22年頃作 油彩・カンヴァス 200cm×425cm ロンドン国立絵画館
『睡蓮』 1916-22年頃作 油彩・カンヴァス 200cm×426cm クリーヴランド美術館