ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer, 1632年10月31日? -1675年12月15日?)は、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)の画家で、バロック期を代表する画家の1人である。映像のような写実的な手法と綿密な空間構成そして光による巧みな質感表現を特徴とする。
【略歴】
- 誕生~幼少期(1632-1643)
フェルメールは、1632年10月30日にデルフトで生まれた。父のレイニール・ヤンスゾーンは、絹織物職人を本職に持ち、副業としてマルコト広場に面する「メーヘレン」という家でパブと宿屋を営んでいた。母はデルフト生まれのディングヌム・バルタザルスと言った。15歳の時にフェルメールは画家としての人生を歩み始めるが、この理由の一つに、職人気質であった父親の影響を指摘されている。また、色々な人の出入りがあった生家の客からも刺激を受けたのではないかと考えられる。
- 修業時代~画家としての出発(1647-1656)
15歳になったフェルメールは、生まれ故郷のテルフトを出て画家としての修業を始めた。この修行時代の詳細な記録はなく、師の存在すら定かではない。修業を始めて5年後の1652年に父が亡くなり、これを機にデルフトに戻ってきた。翌年の1653年12月29日にデルフトの聖ルカ組合に加入し、一人の画家として歩み始めている。この頃に、フェルメールが目指したのは物語画の専門になることだった。これは、優秀で構成や想像力に長けた画家は歴史や神話に基づいた題材を描くべきだというイタリア的に考え方で、オランダ画家たちにもこの風習があったようである。
私生活では、聖ルカ組合に加入する8か月前の4月5日にカタリーナ・ポルネスという女性と結婚している。このカタリーナの父には借金があり、更に宗教の違いなどからカタリーナの母に結婚を反対されたが二人の意思は固かったようである。
画家として出発したフェルメールであったが、物語画の注文は多くなかった。当時のオランダは、王侯貴族がおらず肖像画の需要は少なかった。更に、聖像を否定するプロテスタントを支持していたことで宗教画にも手を付けられない状況にあった。また、フェルメールが住むデルフトでは、アムステルダムのような大都市に仕事を取られ画家には厳しい土地であったもの確かである。このような諸条件はフェルメールに物語画以外の新たな道を選択させることとなる。
- 風俗画家への転身~(1657-1660)
フェルメールは、他の画家たちが仕事を求めて新たな土地に移住する中、デルフトを長く離れることはなかった。これは、実家の借金の整理の為に母親を助ける必要があったことや、妻カトリーナの両親との関係を密にしなければいけなかったことなどが理由に考えられる。しかし、現状のままでは家族を養えないフェルメールは、1656年頃風俗画家への転身を決意する。風俗画家としてのフェルメールは、周囲の風俗画をよく観察しながら、貪欲に自分のものとして吸収していった。この時に、サミュエル・ファン・ホーホストラーテンやデ・ホーホ、ヘーラルト・テル・ボルフなど、オランダ黄金期の先達の影響が指摘されている。このような模範の上でオリジナリティを模索していった時代であった。
1660年には、フェルメールの子供が旧教会に埋葬されている。この際に、住所が妻の実家になっていたことから、結婚してからは妻の実家で同居していたと考えられる。
- 全盛期~名声の獲得(1661-1669)
1660年代は、フェルメール自身の作風が確立され、様々な名作を生み出し続けた。この当時のオランダ美術界は、美術市場で作品を売買するのに作風で画家を見分けられるための独自性が重要だった。所謂、ブランド化して売り出すことが重視されていた市場において、フェルメールは質の向上が先決と考えて市場と対峙した。しかし、後年から見れば、このような姿勢がフェルメールの作品に独自性を与えたのかもしれない。
1662年には、30歳で聖ルカ組合の最年少理事に選ばれるなど、周囲からの評価は低くなかった。1667年には、「デルフト市誌」でファブリツィウス(17世紀前半のオランダの画家で、レンブラント・ファン・レインのもっとも才能ある弟子のひとり)の跡を継ぐ画家として掲載されるなど着実に画家としての名声を獲得している。
この時期にフェルメールの作品で特筆すべき点は、女性モデルへの関心である。フェルメールは、単身女性の上半身の像(通称・トローニー)や手紙を書く、読む女性の題材を多く扱っている。トローニーに関しては、『真珠の耳飾りの少女』などの名作が生まれている。他の作品でも女性単体の上半身と、それに準ずる物語性のある装飾(手紙、食器等)で画面を構成することが多い。このような構成はフェルメールの得意技となり、『牛乳を注ぐ女』や『青衣の女』などの作品を生んでいる。
- 円熟期~死去(1670-1675)
全盛期を過ぎたフェルメールは、1670年から作風に変化が現れる。一つ目は、光の処理である。明暗のバランスが絶妙で、局所的に強弱を調整して演出していたフェルメールだったが、70年からは光が強くなり、明暗の細部を簡略的に扱い始めている。二つ目は、輪郭線が鋭角に描かれるようになったことである。従来は、輪郭の部分は下地の色を露出させたり、色を重ねながら描かれていたが、この頃から省略されている。三つ目は、様々な手法を取り入れて応用するような挑戦的な作品が増えた事である。このような変化は1972年からはっきりと現れるようになり、作品の質にむらが出来ている。
フェルメールが作風を変えていった背景には、時代的にも変化が必要になっていたことがあげられる。当時のオランダは、第3次英蘭戦争などの混乱の中にあった。これは、軍事的なことに留まらず、文化全体にも変化を強いられた。その過程で、前時代とは異なる趣向の客が出始めたことで、画家たちも作品を変化させる必要があったのである。フェルメールもこの時代の変化に柔軟に対応しようと試行錯誤を重ねたのであろうが、残念ながらこの時期の作品の評価は高くはない。
その後、フェルメールは11人の子供を抱え必死に家計を守ろうと奔走したが、ついには首が回らず1675年に亡くなった。埋葬は12月15日と記録にあるが、死亡した日の詳細は分かっていない。この時、8人の未成年遺児がおり、残された妻は過酷な生活を送ることとなった。
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