フランソワ・ミレー 【略歴と作品一覧】

Jean-FrancoisMillet(Nadar)

ジャン=フランソワ・ミレー

Jean-François Millet、1814年10月4日 – 1875年1月20日)は、19世紀のフランスの画家。パリの南方約60kmのところにある、フォンテーヌブローの森のはずれのバルビゾン村に定住し、風景や農民の風俗を描いた画家たちを、今日「バルビゾン派」と称している。ミレーのほか、テオドール・ルソー、ディアズ、トロワイヨンなどがバルビゾン派の代表的な画家であり、カミーユ・コローなども先駆者に数えられる。

 


【略歴】

  • 誕生~修業時代(1814-1840)

フランソワ・ミレーは、1814年10月14日にノルマンディー地方の小さな村グシュシーの農家で生まれた。ミレーの家は格式高い農家で、9人兄弟の長男として生まれた。父は、畑仕事をしながら教区の聖歌隊員として活動していた。母は、その昔に貴族であった農家の出身で寡黙な人であったという。ミレーは、7歳になる前に学校に入学し勉学に励んだが、やがて家業に専念するようになった。

ミレーが画家になろうと決意した経緯は定かではないが、絵の上手さは常人以上だったようで、老人を描いた絵を父が見て長男が画家になることを許したという話がある。1833年、19歳になったミレーは親の許しを得てシェルブールへ行き画家ムシェルのもとで修業を始めた。シェルブールは、ミレーの実家から最寄りの町であり、修業をしながら度々農作業を手伝う為に実家に戻っていたと言う。

修業を始めたミレーだったが、二年後の1835年に父が他界したため、家業を継ぐ決心をして実家に戻った。しかし、祖母の強い勧めにより再びシェルブールに戻り画家ラングロワの元で修業を再開した。この師ラングロワの後押しもあり、1837年に奨学金が給付され、国立美術学校へ入学できるようになった。パリへ移り、国立美術学校の歴史画家ポール・ドラロッシュの教室で学び始めたミレーは、ひたむきで努力家な性格を認められ、当時の画家の登竜門であったローマ賞に挑戦する許可が出た。しかし、ローマ賞で落選したミレーは、その直後に美術学校を退学した。退学してもサロンへの挑戦を続け、2度の落選の末に『ルフラン氏の肖像』が入選した。

 

  • 画家として独立~農村画との出会い(1841-1848)

サロン入選を手土産にシェルブールに戻ったミレーは、本格的に画家としての活動を始めた。ミレーの初仕事は前市長の肖像画を描くことで、新人画家としては幸先のいい出発であった。それに続き、友人夫妻などの自画像を描いているが思った以上の成果は得られなかった。仕事が増えない状況を打開する為、1842年に前年に結婚したポーリーヌ・V・オノを伴ってパリへ移住する。翌年、サロンに2点挑んだが、どちらも落選。そのまま、苦しい生活は続き、1844年4月に妻ポーリーヌはミレーの活躍を見る前に亡くなった。妻を失った心が癒える間もなく、同年にサロンに再び挑戦し、2点が入選した。

サロン入選を機に再びシェルブールに戻ったミレーは、画家として歓迎された。しかし、翌年の1845年に家政婦のカトリーヌ・ルメールと恋に落ち、結婚しよう同棲を始めたが親の猛反対にあい、逃げるようにパリへ移住した。数年間で何度もパリとシェルブールを往復したミレーであったが、これ以降に故郷へ帰るのは10年近く後になる。

パリで生活を始めたミレーは、後にバルビゾン派として活躍する面々と交友を持つことになる。ミレーの近所にはシャルル・ハックが住んでおり、他にも、ディアズ・ド・ラ・ペーニャやトロワイヨンなどと親交を深めた。周囲の人間関係は良好なもので、制作活動にも力が入ったミレーは、1847年にサロンで落選したが、翌年1848年1月に行われた展覧会で後の活動の転換期を迎えた。展覧会はパリで開かれたもので、ル・ナン兄弟の『荷車』などが展示されていた。この『荷車』に描かれた優美な農村の風景に感銘を受けたミレーは、農村への憧れを強くしていった。

 

  • バルビゾン移住~農村での制作活動(1849-1855)

1849年にミレーの画家人生にとって2つの大きな事件があった。1つはサロンでの農村画との出会い。そして、もう一つは6月にパリで起きた「六月事件」である。二月革命からの流れで、ナポレオンのローマ侵攻に反対する暴動がパリ市街で起き、軍隊との衝突は起こった。この事件が六月事件と呼ばれ、ミレーも内務省からの注文に影響が出て大きな痛手となった。また、政治的混乱に加えてコレラが流行し、ミレー一家はジャック一家と共にパリの街を後にした。二つの家族は、ジャックの記憶にある、「フォンテーヌブローの森の近くの○○○ゾン」の言葉だけを頼りにバルビゾンの村に向かったと言われている。

無事にバルビゾンに到着したミレー達は、宿をとったがすぐに家を借りて住み始めた。最初の頃は、暫くしてパリへ戻る予定だったようで、パリの家賃を立て替えるようミレーの熱烈な支持者であったサンスィエに頼んでいた。しかし、バルビゾンの風景が気に入ったのか、この土地に腰を据えて制作活動をするようになる。

バルビゾンで制作した作品は、1850年に『種をまく人』、『藁を束ねる人』がサロンで話題になり、1851年に『麻をほぐす人』で初めて国外で作品が展示された。パリ時代の苦しい活動時期に比べて、格段に評価されるようになったミレーは、1853年に『刈り入れ人たちの休息』ほか2点をサロンに出品し、二等賞を受賞した。ミレーの作品は、一定の評価を得られるようになったが、その反面、保守的な批評家から「ミレーの描く農村の人々が、歴史画や宗教画に描かれている人々より崇高だと主張している。」と反発を買った。

 

  • 農民画家として確立~好転の兆し(1856-1865)

1855年の万国博覧会でバルビゾン派の画家たちは一定の評価を獲得したが、ミレーの評価は未だ賛否両論であった。そのような状況の中で、57年のサロンに『落穂拾い』を出品した。現在では、ミレーの代表作として評価を得ている作品であるが、当時の保守的な批評家の批判は『落穂拾い』で更に激しくなった。フィガロ誌のジャン・ルソーは「落穂を拾っている三人の女性の後方、鉛色の地平線付近に1793年の人民暴動と処刑台の輪郭がくっきりと浮かび上がって見える」と過激に批判した。

その後のミレーは、支持者たちの態度もあまり良くなく、サロンでは出展するも酷評されるか、落選されるか、と厳しい状況が続いた。ミレーの描いた飾らない農村の風景は、フランスを動かしていた都心部の権力者たちにはあまりに眩しく見えていたのかもしれない。

しかし、1860年に入ってミレーの生活は少しずつ好転していく。画商アルチュール・ステヴァンスとエヌモン・ブランがミレーと契約したことで経済的な余裕が生まれる。また、建築家のアルフレッド・フェイドーの説得により、銀行家の邸宅の壁画と天井画を依頼された。更には、65年には建築家のエミール・ガヴェが高額で作品を購入しはじめるなど、この時期にはもうミレーを苦しめる金銭的な悩みはなくなっていた。

また、常に賛否の渦の中に投げ込まれていた作品も、64年の『羊飼いの少女』がサロンに出品されたのを機に一気に好転していった。

 

  • 晩年~死去(1866-1875)

1865年から建築家ガヴェとの契約で家計は安定、翌年66年から68年まで毎年、妻の湯治のためにヴィシーを訪れる余裕が出来た。またサンスィエともドイツとスイスへ旅行へ行っている。

経済的余裕と画家としての地位の確立により、自らの作品をサロンで評価させる必要もなくなったのか、1870年を最後にサロンへの出品をやめた。その後のミレーは、パリとロンドンのデュラン=リュエル画廊を主な作品発表の場として活動を続けた。ミレーの最晩年には、印象派たちの活動が本格化し、ミレーが風景画を多く描いていることから印象派の先駆的な扱いを受けることもある。しかし、印象派の戸外制作と違い、ミレーはアトリエでの制作が基本であった。

1874年には、国家からパリのパンテオンの壁画の依頼を受けるなど、以前活躍を続けていた。しかし、翌年の1875年1月3日にカトリーヌと教会で結婚式を挙げたが、20日に家族に看取られて死亡した。60歳であった。

 


【作品一覧】画像かタイトルをクリックすると詳細が表示されます

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『ルイーズ=アントワネット・ファルダン』 1841年作 油彩・カンヴァス 73.3cm×60cm

 

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『ポーリーヌ・V・オノの肖像』 1841-43年頃作

 

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『ミレー夫人の肖像(カトリーヌ・ルメール)』 1844年頃作 油彩・カンヴァス 53cm×46cm

 

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『部屋着姿のポーリーヌ・V・オノの肖像』 1843-44年作 油彩・カンヴァス 100cm×80cm

 

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『野良からの帰り』 1846-47年頃作 油彩・カンヴァス 46.2cm×37.8cm

 

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『鏡の前のアントワネット・エベール』 1844-45年作

 

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『箕(み)をふるう人』 1847-48年頃作

 

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『漁師の妻』 1848年作 油彩・カンヴァス 46.9cm×39cm

 

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『裁縫をする女たち』 1848-50年作 油彩・カンヴァス 33cm×24cm

 

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『種まく人』 1850年作

 

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『星の夜』 1850-65年頃作 油彩・カンヴァス 65.4cm×81.3cm

 

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『仕事に出かける人』 1851-53年作

 

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『落ち穂拾い、夏』 1853年作 油彩・カンヴァス 38.3cm×29.3cm

 

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『パンを焼く農婦』 1853-54年作 油彩・カンヴァス 55cm×46cm

 

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『草を焼く農婦』 1853-54年作 油彩・カンヴァス 38cm×29cm

 

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『漂泊する農婦』 1853-54年頃作

 

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『木こり』 1855年頃作 油彩・カンヴァス 38cm×30cm

 

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『母親の心遣い』 1855-57年頃作

 

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『落穂拾い』 1857年作

 

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『晩鐘』 1857年頃作

 

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『夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い』 1857-60年作 油彩・板 53.5cm×71cm

 

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『歩き初め』 1858-66年頃作 黒チョーク・紙 29.5cm×45.9cm

 

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『死と木こり』 1858-59年作

 

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『黄昏』 1859-63年頃作 黒コンテ・紙 50.5cm×38.9cm

 

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『羊の毛を刈る女性』 1860年頃作

 

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『子どもに食べさせる母(ついばみ)』 1860年頃作 油彩・カンヴァス 74cm×60cm

 

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『葱のある静物』 1860-65年作 油彩・カンヴァス 75cm×61cm

 

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『牧羊場の羊の群れ』 1861年作

 

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『ミルク粥』 1861年作 油彩・カンヴァス 114cm×99cm

 

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『水浴する鷲鳥番の少女』 1863年頃作 油彩・カンヴァス 38.5cm×46.5cm

 

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『羊飼いの少女』 1863年頃作 油彩・カンヴァス 81cm×101cm

 

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『子牛の誕生』 1864年作 油彩・カンヴァス 81.1cm×100cm

 

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『エジプトへの逃避』 1864年頃作 コンテ、インク・紙 31.7cm×40.7cm

 

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『冬(凍えたキューピット)』 1864-65年作 油彩・カンヴァス 205cm×112cm

 

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『夏(豊穣の女神)』 1864-65年作 油彩・カンヴァス 266cm×134cm

 

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『春(ダフニスとクロエ)』 1865年作 油彩・カンヴァス 235.5cm×134.5cm

 

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『雁を見上げる羊飼いの少女』 1865年作 パステル・紙 58cm×41.6cm

 

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『生まれたての子羊』 1866年作 パステル・紙 40.4cm×47.1cm

 

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『グリュシーの村はずれ』 1866年作 油彩・カンヴァス 81.5cm×100.6cm

 

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『バルビゾン村の入り口、冬』 1866-67年頃作 黒コンテ、パステル・紙 51.5cm×40.5cm

 

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『鷲鳥番』 1866-67年作 油彩・カンヴァス 45.7cm×55.9cm

 

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『オーヴェルニュの山の牧場』 1866-69年作 油彩・カンヴァス 81.5cm×99.9cm

 

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『冬の夜』 1867年作 パステル、黒コンテ・紙 43.8cm×54cm

 

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『水仙とすみれ』 1867年頃作 パステル・紙 40cm×50cm

 

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『月明かりの農家の中庭』 1868年作 パステル、黒コンテ・紙 71.1cm×87cm

 

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『春』 1868-73年作 油彩・カンヴァス 86cm×111cm

 

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『夏、蕎麦の収穫』 1868-74年作 油彩・カンヴァス 85.4cm×111.1cm

 

matome53『冬、木こりの女性』 1868-75年作 油彩・カンヴァス 82cm×100cm

 

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『羊飼いの少女』 1868or72年作 油彩・板 35.7cm×25.5cm

 

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『ランプの下で縫い物をする女性』 1870-72年作 油彩・カンヴァス 100cm×81.9cm

 

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『木陰に座る羊飼い』 1872年作 油彩・カンヴァス 65.4cm×54.9cm

 

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『グレヴィルの断崖』 1871年作 パステル・紙 43.7cm×54.1cm

 

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『グレヴィルの教会』 1871-74年作 油彩・カンヴァス 60cm×73.4cm

 

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『秋、積み藁』 1874年頃作 油彩・板 85.1cm×110.2cm

 

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『松明での鳥の猟』 1874年作 油彩・カンヴァス 73.7cm×92.7cm