葛飾 北斎(かつしか ほくさい、葛飾 北齋[1]、宝暦10年9月23日(1760年10月31日)? – 嘉永2年4月18日(1849年5月10日))とは、江戸時代後期の浮世絵師。化政文化を代表する一人。代表作に『富嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家である。
【略歴】
- 誕生~絵師を志す(1760-1778)
葛飾北斎は、宝暦10年(1760)の9月23日に生まれた。出自の詳しい資料は残っていないが、飯島虚心著「葛飾北斎伝」によると下総国本所割下水で川村氏の子として産まれ、時太郎と名付けられたとある。後に、鉄蔵と改名している。一度は養子として叔父の元へ行くが、のちに実子に家督を譲って川村家に戻ったと紹介されている。
絵に興味を持ち始めたのは6歳の時で、丁度浮世絵界が木版技術の改良により多色摺の錦絵が完成した年だった。一時期、貸本屋で働いており、12歳の頃には本の山を築き、暇があれば貸本の挿絵を見ながら絵の勉強をしていた。14歳の頃には、彫刻家の下で働き、木版印刷の技術を習得している。しかし、この修行を早々に切り上げ、安永7年(1778)19歳の時に勝川春章に弟子入りし本格的に浮世絵師の道を歩むこととなった。
- 勝川春章に弟子入り~修業時代(1779-1793)
版木彫りの仕事を辞め、勝川春章に弟子入りした北斎は、入門の翌年には三枚の役者絵を発表し画界にデビューした。当時の画名は師の春章の春と別号である旭朗井の朗をとって「勝川春朗」であった。師の号を二文字譲り受けるということは別の弟子たちから見ても特別な扱いを受けていたことが分かる。この修行時代に春朗として制作活動に明け暮れ、残した作品数は、浮世絵200点以上、挿絵50種類以上と言われている。中でも天明7年~寛政4年(1787-1792)の5年間は作品数が急激に増え、充実した修業時代だったことが伺える。
寛政4年に勝川春章が死去した事をきっかけに、翌年に破門され勝川派を離れているが、本人もこれ以上得るものがないと悟った上で門下を離れたのではないかと考えられる。
- 宗理様式への転換~北斎辰政を襲名(1794-1803)
勝川派を去った北斎は、「宗理」という新たな落款で作品を制作し続けた。この名前は琳派の俵屋一門(宗理派)の頭領が用いたものである。この頃、宗理派様式に没頭した理由は分かっていないが、別人のように画風を変え、肉筆画や挿絵を制作していった。勝川派から離れた直後の異様な方向転換であることから、浮世絵の主流であった勝川派への反抗心からと想像するのが自然であろうか。どうにせよ、北斎は新たな画風でも力を発揮し、当時江戸で流行っていた狂歌の流れに乗り、摺物や狂歌絵本で一躍人気となった。
しかし、「宗理」襲名から僅か3年後の寛政10年(1798)には、号を門人の宗二に譲り、「北斎辰政」と名乗って独立してしまう。これより享和4年(1804)頃までは宗理時代の画風を引き継いではいるが、錦絵の制作を再開するなど活動はより活発になっていった。
- 挿絵と肉筆画の時代~「葛飾北斎」と改名(1804-1811)
文化元年(1804)からは、幕府の意向に沿った道徳的で教訓的な読本が流行したことから、北斎の仕事も読本の挿絵が多くなっていた。しかし、北斎が手掛けた読本は長編で複雑な内容が多く、本に対する知識と理解が必要であった。また、読本は一色摺りが多く、挿絵にもその制約を守った上で表現力が要求されるなど難しい仕事でもあった。こうした仕事に見事な画力と発想力で応えた北斎の挿絵は庶民の間で流行し、名声を欲しいままとした。この文化元年から10年間で描いた挿絵は190冊分にも上り、枚数で1000枚を軽く超えるのではないかと言われている。
一方で、肉筆画の制作にも意欲的に取り組んでいた。この頃の作品量は、一番多かった最晩年の量に匹敵し、数々の名作が生まれている。また、この文化3年(1806)頃に名乗っていた「葛飾北斎」という名が現在でも広く知られるようになった。
- 関西への旅~絵手本の作成(1812-1829)
挿絵の仕事が一段落した北斎は、文化9年(1812)に関西方面に旅へ出た。名古屋の門人・牧墨僊の家に数か月滞在し300余りの小さな版下絵を制作する。この版下絵がまとめられ、文化11年(1814)に版元永楽屋東四郎から絵手本として出版された。これが北斎の代表作になる『北斎漫画』である。この頃から北斎は、絵手本に注力し始めた。この絵手本は本来、師から弟子へ肉筆で与えられる参考書のようなものだったが、北斎は絵手本を大量に印刷できる版本に仕立てて刊行した。これは、門人が増えすぎて一々描くのが手間になったことや、全国にいる熱心な北斎のファンの要望に応えた結果である。
この時期に私生活では、娘や妻が相次いで他界し、長女とは離縁、本人は中風に悩まされるなど不幸な出来事が多かった。また、画業以外で熱心になったのは川柳で、「卍」や「万字」などの号で本格的に創作活動を行っていた。
- 錦絵の全盛~風景画家北斎の確立(1830-1833)
北斎が現代でもその名を轟かせているのには、一連の風景画の影響が大きい。代表的なもので『富嶽三十六景』や『諸国瀧廻り』などがあるが、そのほとんどは天保元年~4年(1830-1833)までの4年間に制作されている。この時期が北斎の後世への立場を作っていると言っても過言ではないだろう。
この風景画の下地には、単色で苦戦した読本で培った表現力や絵手本での細かな表情や動きなどのアイデアがある。また、一つの題材を色々な場所で描き上げ「シリーズ化」したことで、より分かりやすく庶民に浸透したであろう。これは、読本の物語性と絵手本の多角的な描き方が融合した、北斎にとっては絵師としての集大成とも言えるかもしれない。
画業の方では、円熟し素晴らしい活躍をしていたが、私生活は相変わらず苦しい時代であった。北斎は書簡のなかで「当春は、銭もなく、着物もなく、口を養うのみにて」と記すほど貧困に苦しんでいたようである。
- 肉筆画の時代(1834-1849)
天保5年(1834)に75歳を迎えたj北斎は、以前制作の情熱が衰えることなく、絵本『富嶽百景』を発表した。北斎は同書の跋文(後書き)で
「己六才より物の形状を写の癖ありて半百の此より数々画図を顕すといえども七十年前画く所は実に取るに足ものなし七十三才にして稍 禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり故に八十六才にしては益々進み九十才にして猶其 奥意を極め一百歳にして正に神妙ならん与欠 百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん願くば長寿の君子予言の妄ならざるを見たまふべし」
と記し、自己の画風を百有十歳までに完成させると意気込んでいた。それから5年間は版本や錦絵を多少描いていたが、80歳ころからは肉筆画に力を注ぎ始める。主に、和漢の故事古典に基づいた宗教画や自然画を多く描き、浮世絵の常である時様風俗を描くことはなくなっていた。
この時代は、絵の題材の変化に伴い、画風にも変化が見られ、従来よりも更に濃密な色調と重厚な画面構成で描かれている。このように、浮世絵から一線を画し始めた北斎は、もはや浮世絵師と呼べるものではなかった。これは、北斎の絶え間ない進化の上ではしょうがないことであり、浮世絵の先に行きついたと言った方が正しいのかもしれない。
嘉永元年(1848)、93度目の転居で浅草聖天町に住みついた北斎は、翌年も数点の肉筆画を発表していたが、嘉永2年(1849)の春に病に倒れ、4月18日に死亡した。90歳だった。
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