フィンセント・ファン・ゴッホ 【略歴と作品一覧】

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フィンセント・ファン・ゴッホ

Vincent Willem van Gogh、1853年3月30日 – 1890年7月29日)は、オランダ出身でポスト印象派(後期印象派)の画家。

 


【略歴】

  • 誕生~青年期(1853-1879)

フィンセント・ファン・ゴッホは、1853年にオランダのフロート・ズンデルトで生まれた。父親はプロテスタントの牧師、祖父も高名な牧師という厳格な家庭に生まれた。母方の伯父もアムステルダムの有名な説教師である。幼少期のゴッホは、大人も手を焼くような素行で理由は定かではないが中学も中退している。

中学中退後のゴッホは、グーピル商会ハーグ支店に務めた。ロンドン店やパリ店でも働いており、若くして英語、フランス語、ドイツ語を使いこなす秀才であった。当初は、勤務態度も良好であったが、徐々に仕事について疑問を持ち始め仕事ぶりが悪くなり、1876年23歳の時に解雇された。

グーピル商会を去った後は、イギリスに渡り、私立学校でドイツ語とフランス語を教えながら宗教活動に勤しんだ。数年間、職を転々としていたゴッホだったが、「神の言葉を種まく人」になりたいと考え、アムステルダム大学の神学部を目指す。しかし、古典語に挫折して受験を諦めるなど中途半端な態度で目標が二転三転している。この様な、挫折癖は幼少の頃から変わりなかったようである。

1878年1月からは伝道師として活動する為に、ブリュッセルで訓練を受けていたが上手くいかず。翌年からどうにかボリナージュで炭鉱夫たちを相手に伝道活動を開始した。献身的に仕事をしていたが、貧しい者に自らの衣服を与え自分は裸で寝るなどの行き過ぎた行動が目立ち、7月には伝道師協会から免許停止を告げられた。

 

  • 画家への転向~絶頂から孤独へ(1880-1885)

伝道師の道を絶たれたゴッホは、1880年の冬にボリナージュからフランスのクリエールに旅行へ行く。この道中で画家になることを決心し、独学でデッサンを描き始めた。初期の作品は、農民画家のミレーを模写などや自らも農民を題材にしたデッサンを描いている。

神学から画家へ転向したゴッホは、次第に宗教への嫌悪感を募らせていく。81年に従姉で未亡人のケーに恋をし、幾度となく自宅を訪ねて激しく求愛し、両親まで会いに行ったが断られる。この頃のゴッホは、宗教から見放され、恋も実らず、精神的に大きなダメージを受ける。この反動で、牧師をしている父や家族の顔に泥を塗る様な行為を繰り返していた。81年の年末にバーグに移り住んだゴッホは、娼婦クリスティーヌと同棲を始めたが、これも牧師の一家にとっては大問題であった。30歳で仕送りで生活しながら娼婦と恋に落ちた長男など受け入れられるはずもなく、親子関係は悪化していった。

家族との関係は悪くなったが、バーグでの生活はゴッホにとって充実したものであった。この頃に、従兄で画家のアントン・マウファから絵画の手ほどきを受け、ハーグ派の画家たちとも交流を深めていった。クリスティーヌとの生活は順調で、幸せな家庭に夢中になっていた。そのうち、クリスティーヌが子供を生んだことで更にゴッホの生活は満たされていく。

人生の絶頂を迎えていたゴッホだったが、クリスティーヌとの生活は1年半程度で悪化し、1883年9月に関係を解消してしまう。その後、弟のテオに一緒に画家の道を歩もうと勧めていたが断られた、貧しい孤独な生活に耐えれなかったのか12月に両親の元へ戻る。

実家で作品制作を続けていたゴッホだったが、女性問題で両親を悩ませ続けた。85年に父が脳卒中で死去。同年10月に友人とアムステルダムに出かけた際にアムステル国立美術館で見たレンブラントに感銘を受け、翌月にはアルトウェルペンに移住を決意した。

 

  • パリへ移住~精神の変調(1886-1887)

ベルギー北部のアルトウェルペンの美術学校で絵を学んでいたゴッホだったが、1886年3月に突然パリへ移住し、テオのアパートに住み始めた。テオは画廊に勤めており、ゴッホが最新の絵画やパリの画家と出会う手助けをした。この出会いがゴッホの作風に大きな変化を与え、パリ時代のゴッホは新たな表現の道を模索することになる。

ゴッホが日本の浮世絵に大きく影響を受けていたことは有名であるが、87年3月頃に収集した浮世絵の展覧会も開いている。また、4月にはベルナールなどの画家とセーヌ河畔で印象派、新印象派風の作品を制作している。11月、レストラン・ドゥ・シャレで展覧会を開催し、順調なパリ生活を送っていたかに見えたが、12月に生活苦により精神的に異常をきたしてしまう。

 

  • アルルへ移住~ゴーギャンとの共同生活(1888-1889)

1888年2月22日に、念願だった南フランス・アルルに移住した。ゴッホがアルルで夢見たのは、日本人の様に画家同士が共同生活をし、兄弟愛を育むことだった。これは、住み込みなどで師から画業を学び取る日本の師弟関係に憧れたものだと考えられる。

アルルに着いたゴッホは、生憎の雪景色だったが「日本のようだ」と喜んだと言う。やがて春になり、雪が解けたアルルの風景をゴッホはキャンパスに描き続けた。この頃のゴッホの作品には、アルルの地からエネルギーを貰っているかのように輝きを放ち始める。

5月、経済難からジヌー夫妻のカフェの二階に住んでいたが、9月には有名な「黄色い家」に住み始めた。10月にはゴーギャンがアルルに到着し、黄色い家での共同生活が始まった。ゴッホの理想の生活、信頼する仲間との制作活動がスタートしたが、この生活も長くは続かなかった。共同生活から2か月後の12月23日にゴーギャンと口論になったゴッホは、自らの左耳を切断する「耳切り事件」を起こしてしまう。原因は、絵画に対しての口論とも娼婦を巡った口論とも言われているが、以前から少しずつ溜まった絵画への考えの違いが爆発したのは確かであろう。

事件後に死んだようにベットに寝ていたゴッホを警察が発見し、精神病院に収容されることになる。翌年1月まで入院したゴッホは、退院後から制作活動を再開した。

 

  • 精神病で入院~「宗教」と「自然」の葛藤(1889-1890)

耳切り事件以来、精神病の発作を繰り返しながら制作を続けていたゴッホだったが、1889年5月8日に自らサン・ミレの療養院に入院する。彼を苦しめたのは、自然と宗教との葛藤であった。宗教は若い頃、ゴッホにとって大きな後悔を残したが、同時に、無視できない存在になってしまった。アルルで手に入れた自然(理想的な生活=ユートピア)との調和は上手くいかず、宗教に救いを求める心がゴッホを苦しめ続けた。

発作との闘いは続いていたが、第五回アンデパンダン展に出展、翌年1月にはビリュッセルで「20人展」開催、3月に第六回「アンデパンダン展」に10点出展するなど作品の制作意欲は衰えることを知らなかった。この時期の作品には、「宗教」と「自然」の葛藤を現すような作品が増え、禍々しい木々や教会の風景を描いている。

 

  • オーヴェールへ~死去(1890)

1990年5月20日にサン・ミレの療養院を出たゴッホは、オーヴェール・シュル・オワーズに移住。精神科医のガシェの診察を受け始めた。ガシェは、絵画コレクターで自らも描くアマチュア画家であった。この主治医の元で治療しながら制作を行っていたが、7月27日に自らの腹に銃弾を撃ち込んで拳銃自殺を図る。翌日にテオがオーヴェールに駆け付けるが、更に翌日の29日午前1時30分に息を引き取った。37歳であった。

死の翌日にオーヴェールの共同墓地に埋葬された。ゴッホの残した作品は残された人々の手で散り散りになり現在に至る。

 


【作品一覧】画像かタイトルをクリックすると詳細が表示されます

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『種まく人』(ミレー作を模写) 1881年4月作 ペン 48cm×36.5cm

 

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『炭鉱の女たち』 1881年4月作 ペン 43cm×60cm

 

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『小さい鎌を持った若い農夫』 1881年作

 

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『母と子』 1881-83年作

 

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『教会のベンチに座る会衆』 1882年9月作 水彩・鉛筆 28cm×38cm

 

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『悲しみ』 1882年11月作

 

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『掘る人』 1882年11月作 鉛筆 左47.5cm×29.5cm 右50.5cm×31.5cm

 

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『赤ん坊を抱く女』 1883年1-2月作 黒チョーク 41cm×27cm

 

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『泥炭を掘る人びと』 1883年5月作 木炭 50cm×100cm

 

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『機(はた)』 1884年5月作

 

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『じゃがいもを食べる人たち』 1885年4-5月作

 

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Cineraria’s 1885年

 

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Vase with Red and White Flowers 1886年

 

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『グレーのフェルト帽の自画像』 1887年作

 

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『タンギー爺さんの肖像』 1887年作

 

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Restaurant Rispal at Asnières (Le restaurant Rispal à Asnières) 1887年

 

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『ふたつの肖像画』 1887年作

 

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『レストランの内部』 1887年6-7月作 油彩・カンヴァス 45.5cm×56.5cm

 

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『アニエールの公園』 1887年6-7月作 油彩・カンヴァス 75cm×112.5cm

 

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『アニエールのレストラン・ド・ラ・シレーヌ』 1887年夏作 油彩・カンヴァス 54.5cm×65.5cm

 

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『ひまわりの咲くモンマルトルの小道』 1887年8-9月作 水彩・ペン 30.5cm×24cm

 

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『ひまわり』 1887年8-9月作 油彩・カンヴァス 50cm×60cm

 

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『ひな菊とアネモネ』 1887年夏作 油彩・カンヴァス 61cm×38cm

 

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『亀戸の梅』(歌川広重作の模写) 1887年9-10月作 油彩・カンヴァス 55cm×46cm

 

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『花魁』(渓斎英泉作の模写) 1887年9-10月作 油彩・カンヴァス 105cm×60.5cm

 

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『郵便配達夫のルーラン』 1888年1-3月作

 

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『雪景色』 1888年2月作 油彩・カンヴァス 38cm×46cm

 

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『マウフェの思い出』 1888年3月作

 

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『跳橋』 1888年4月作

 

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『アイリスのあるアルルの眺め』 1888年5月作 油彩・カンヴァス 54cm×65cm

 

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『アルル 黄色い家』 1888年6月作

 

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『サント=マリー=ド=ラ=メールの海岸の小舟』 1888年6月作

 

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『夾竹桃と小説本のある静物』 1888年8月作 油彩・カンヴァス 60.3cm×73.6cm

 

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『夜のカフェ』 1888年9月作

 

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『坊主としての自画像』 1888年9月作 油彩・カンヴァス 62cm×52cm

 

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『アルルのゴッホの寝室』 1888年10月作

 

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『揺籃の女(ルーラン夫人)』 1888年12月-1889年3月作

 

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『アルジェリア歩兵』 1888年作

 

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Portrait of Armand Roulin 1888年

 

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『ラ・ムスメ(娘)』 1888年作

 

 

 

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『種播く人』 1888年作

 

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『アルル、夜のカフェ・テラス』 1888年作

 

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『少女の肖像』 1888年作 油彩・カンヴァス 41.2cm×33.5cm

 

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『掘る人のいるアルルの果樹園』 1889年4月作 油彩・カンヴァス 72cm×92cm

 

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『刈る人のいる麦畑と太陽』 1889年6月作 油彩・カンヴァス 72cm×92cm

 

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『パレットを持った自画像』 1889年9月作

 

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『林のなかで掘るふたり』 1889年11-12月作 油彩・カンヴァス 65.1cm×50.2cm

 

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『自画像』 1889年作

 

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『ひまわり』 1889年作

 

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『オリーヴ園』 1889年作

 

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『耳に包帯をした自画像』 1889年作

 

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『アイリス』 1889年作

 

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『監獄の中庭』(ギュスタヴ・ドレ作の模写) 1890年2月作 油彩・カンヴァス 80cm×64cm

 

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『アルルの女、ジヌー夫人』 1890年2月作 油彩・カンヴァス 65cm×49cm

 

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『疲れ果てて:永遠の入口で』 1890年5月作

 

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『ラザロの復活』(レンブラント作の模写) 1890年5月作 油彩・紙 50cm×65cm

 

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『ガシェ医師の肖像』 1890年6月作 油彩・カンヴァス 67cm×56cm

 

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『カラスの麦畑』(部分) 1890年7月作

 

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麦束のある風景』 1890年7月作 油彩・カンヴァス 50.5cm×101cm

 

『花咲くアーモンドの木』 1890年作

 

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『麦畑の糸杉』 1890年作

 

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『アイリス』 1890年作

 

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『糸杉と星の道』 1890年作

 

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『ガシュ博士』 1890年作

 

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『オーヴェールの教会』 1890年作

 

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『古いぶどう畑の農婦』 1890年作

 

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『麦を束ねる人』

 

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『樺の林と羊の群』