【作品一覧】森田恒友【洋画家】

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森田 恒友
(もりた つねとも、1881年(明治14年)4月9日 – 1933年(昭和8年)4月8日)は、大正~昭和期の洋画家。博物学者で国立民族学博物館名誉教授の森田恒之は孫。


【生い立ち】

森田恒友は洋画家と日本画家の二つの顔を持つ稀有な画家であった。正確には西洋画から日本画へ移行していったと言う方がよいだろう。時代柄、日本画家を志したものがグローバル化に伴って西洋文化に触れ、洋画家に変化することはあったであろうが、逆はそれよりずっと珍しいのである。彼の画家人生の変遷について知るためにはまず彼の経歴を知る必要があるだろう。

森田は1881年4月9日に埼玉県大里郡玉井村(現熊谷市)の農家に生まれ、20歳の頃に画家を目指して上京した。上京後は中村不折や小山正太郎の不同舎で学んだ。1902年には東京美術学校洋画科選科に入学し4年間学んだ。卒業後は挿絵や漫画を新聞雑誌に投稿して生計を立てながら作品制作を続け、1907年には第一回文展に「湖畔」が入選している。

森田の最初の転機は1914年から行ったヨーロッパ留学であろう。4月に神戸港を出港しヨーロッパに旅立ったが、翌年の11月に第一次世界大戦の騒乱の為に帰国した。結局、ヨーロッパへ行ったのは1年半程度であったが、イギリスやフランス、イタリアなどを歴訪し、当時活躍していた画家たちの作品をしっかりと学んでいったのである。ルソーやロートレック、ドーミエなどの作品に感銘を受ける中で、特に森田に影響を与えたのはセザンヌであった。セザンヌの作品を見た後に、彼の作風は明らかにセザンヌのものとリンクし始め「セザンヌ時代」と呼ばれる作風の時期が続くのである。

ヨーロッパから帰国後は一転、伊豆や奈良など日本の名所を訪ね、日本的な美の感覚を養っていく。油絵での制作は続けていたが、川端龍子や小川芋銭らが結成した珊瑚会に参加するなど、水墨画の勉強を始めている。彼のこの行動は周囲の人からも「森田は油絵を忘れる為に油絵の本場に学びに行ったようなもの」と評されるほどであった。この行動は、彼の洋画と日本画のどちらかと決めるべきではない、といった考えの元に行われたのである。その証拠に、晩年まで森田は油絵の制作も行っている。

森田のこのような経歴により、彼が洋画から日本画へ移行したのではなく、実際には評価を受けたのが洋画から日本画へ移ったと言った方が正しいのである。どちらかの画法に固執することない森田の作品には、ところどころに折衷様式の様な僅かな残り香が感じられる。それこそが彼の作品の最大の持ち味であろう。

晩年は更に自然との融合が進み、旅をしながら自然の表情に目を向けていた。この頃は自己と自然の対立が激しい西洋画の思想を拒絶し、更に自然と共鳴できるような東洋的な作品を探求していった。その後、1933年に亡くなった。追悼文では脇本楽之軒が「森田君は決して大画人ではなかった。しかし、小さいながらも真の画人であった。」と評している。

 

【作品一覧】

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『湖畔』 1907年

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『房州風景』 1913年

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『フランス風景 I』 1915年

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『ヴェトゥイユの春3』 1915年

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『城址』 1916年

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『会津風景』 1916年

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『山麓』 1920-30年

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『初夏の図』 1926-27年頃

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『緑野』 1926-27年頃

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『水村訪友』 1932年頃

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『山麓煙霧図』 1932年頃

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『蔬菜帖 6』 1931年

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『蔬菜帖 7』 1931年

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『蔬菜帖 8』 1931年

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『蔬菜帖 9』 1931年

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『蔬菜帖 10』 1931年

【管理人コメント】
作品集がほとんどなく、古本屋でたまたま1991年の企画展の画集を買うことが出来ました。ネット上に高画質の画像が落ちてないので、手持ちのものがスキャンできたらアップし直します。
国内にはスター級ではないですが見応えのある画家の作品が多くあります。また他の人も探して紹介したいと思います。

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